川本三郎の新著は本屋で見かけるたびに買うようにしているので(そして地元のいつもの書店にはよく入荷する)、これもその一冊。
失われた/失われゆくものを嘆く部分もかなり多いのだけど、それでも、ああ、幸せってのはこういうものだよなぁと思わせる。
些細なことだが、「純喫茶」の「純」の意味を初めて知った(笑)
確か新聞の書評で見かけて、面白そうだなと思って読んでみた。まぁタイトルから想像できるように、親しみやすい、軽く読める本ではあるけど、タイムトラベルにせよ宇宙論にせよ、ベースとなる「物理学」は本格派である。諸々のSF映画作品で描かれている要素について、実際の物理学の知見に照らして考えるとどうなのか、ということを、野暮にならない程度にツッコみつつ、考えていく体裁。というより、SF映画を切り口に現代物理学を紹介している、と言うべきか。大学の一般教養課程における文科学生向けの自然科学系の講義だったら、大人気になりそうな雰囲気。
「ネタバレがあるので、題材にしている作品を観てから読んだ方がいい」と断り書きがあるが、自分がすでに観た作品を基準に判断すると、作品を楽しむうえで致命的とまでは言えないような気がする(私は観ていない作品の章も含めて全部読んでしまった)。ちなみに本書で取り上げられている作品のうち私がすでに観ていたのは、『ターミネーター』シリーズ、『ゼロ・グラビティ』、『スターウォーズ』シリーズ、『オデッセイ』。有名な『バック・トゥ・ザ・フューチャー』はなぜかご縁がなくて1作も観ていない。
同じ著者の『時間は逆戻りするのか』『宇宙人と出会う前に読む本』(いずれも講談社ブルーバックス)も読みたくなるが、他にも読まなければならない本が溜まっているので、しばらく我慢。
TwitterでDeepLについて面白い考察を書いていらっしゃる方がいて、その方が翻訳されたのが本書。なかばお付き合いで購入したようなものだが(失礼!)、これがけっこう良かった。
グリーンニューディールについては昨年11月に岩波新書の1冊を読んでいて、そちらの方が手軽といえば手軽なのだけど、本書の方が財源の話などいろいろ具体的で、その分、希望を抱かせる内容になっているように思う。手に取るとけっこうなボリュームがあるように感じるが、そこまで難渋はしなかった。岩波新書を先に読んで一通り予備知識を得ていたからだろうか。しかし、どちらか一冊だけ読むなら、本書の方がいいかもしれない。
翻訳は、少し気になるところはあったものの、重たい真面目な内容のわりに、総じて読みやすい。しかしチョムスキーの文体というか語り口というのは、誰が訳してもこういう感じになるものなのかなぁ(笑) 原文で読んだことがないので確言はできないのだけど、そもそも当人の毒舌ぶりがあまりセンスがいいとは思えないので、しかたがないのかも。本来の言語学の著作だと、また違うのだろうが。
訳注が親切で、そこから得られる情報もかなり良い。訳者あとがきの後半部分は、本書の主題から少しばかり外れて機械翻訳(DeepL)の考察に充てられていて、そこももちろん面白い。それにしても、上に書いた「少し気になるところ」の一つはexistential crisisを「実存的危機」と訳す点で、個人的には「存亡の危機」の方が優るのではと思うのだけど、訳者あとがきで紹介されるDeepLの訳がまさに「存亡の危機」になっていて、何となく悔しい(笑) しかし、人類とか社会とか、そういう大きな主語について「実存」という言葉を使うのは、哲学科出身としては少し違和感があるのだよね…。
引き続き、枕元に置いて、寝る前に少しずつ読み進める。
どの登場人物にもあまり感情移入できないのは本編同様で、薫、匂宮、大君、中の君、いずれも何だかなぁという感じである(笑) 本編では、紫の上が(境遇の割には)いちばんまともな人に思えたかな…。
それにしても、やはり舞台が京都の街中(?)から離れると物語に変化が生じてなかなかよろしい。宇治川といえば京都競馬場くらいしか思い浮かばないのだけど、いずれ宇治市源氏物語ミュージアムにも行ってみたいものだ。
一巻読み終えるたびに次の巻を買っていたのだけど、残り二巻は一気に買ってしまった。といっても読むペースを上げるでもなし。まぁ夏頃には読み終わるのではないか。
誰か(たぶんあの人)が書影をアップしていて、気になって読んでみた。
タイトルからはもっと社会派的なマジメな内容を想像していたのだけど、先に著者プロフィールを見たら、なんだ、デイリーポータルZで書いている人じゃないか。そういえば、けっこう話題になっていた「銭湯の鏡に広告を出した話」も収録されている。
デイリーポータルZは欠かさず読んでいるというわけでもないが好きなので、一気に読む。家人は、デイリーポータルZは下品なところがないので好き、と言う。昔エログロナンセンスという言葉があったが、デイリーポータルZにはナンセンスはあってもエログロはない。しかしめっちゃ面白い。そして、たまには役に立つし、それよりも高い頻度で勉強になる。
この本にも、そういう文章が多い。「店選びを完全に自分の父親に任せるハシゴ酒」やマイ史跡は何だか泣けるし、チェアリングや「チャンスがなければ降りないかもしれない駅で降りてみる」はたまには試みたい。あと、長野方面に何かとご縁があるのだから野沢菜は買おう、などと思う。
『批評理論入門』を読んで『フランケンシュタイン』を読む人もいれば、私のように『批評理論入門』を読むための予習として『フランケンシュタイン』を読む人もいるだろう。しかし『フランケンシュタイン』を読んで、本書を読もうと思う人は少ないのではないか。何しろ『フランケンシュタイン』では、「いかにして生物を生み出すか」自体は重要なテーマではないからだ。
とはいえ、図書館に行って、習慣でブルーバックスの棚を眺めているうちに、こんなタイトルの本が目に入り、『フランケンシュタイン』にも言及されていると分かれば、つい読んでみたくなるではないか。え、ならない?
もちろんこの本では人間並みの生物を作ろうなどという話ではなく、紹介される科学者たちが考え、試みているのは、そもそもこの地球上にどのように生命が誕生したのか、そして生命と呼びうる「細胞」を人工的に作ることはできるのか、といったレベルの話だ。
ブルーバックスのシリーズは、最初の導入部は読みやすいのに、だんだん話が難しくなって、最後の5分の1くらいはちんぷんかんぷん、という本がけっこう多いのだけど、本書の著者は、この分野を専門に研究する科学者ではなくサイエンスライター兼小説家なので、最初から最後まで(もちろん部分的には難しい話も出てくるのだが)楽しく読ませてくれる。ぬいぐるみや自動車などにも「いのち」を感じる私たちは何をもって「生命」と考えているのか、というところから始まって、ビッグバン、パリティ対称性の破れにまで話が及んでしまうのだから、化学・生物学は言うまでもないとして、哲学や社会学から物理学に至るまで、まさに人間の知の領域を縦横無尽に駆けめぐるように「生命」が語られている本である。
2019年8月に出版された本だが、もちろん当節流行りの(?)ウイルスやワクチンについて考える際にもベースになる話だ。
というわけで、著者の願いに応えて、こう書いておかなければなるまい。
「これ、すごく面白いよ」
「ああ、京都に行きたいなぁ」と思わせるが、観光案内ではない。
市バス206系統の経路に沿って(ときに逸脱しつつも)、京都を語っていく構成。もちろん寺社仏閣の名も折に触れて出てくるのだが、街並みや衣食住を含む文化を語る比重が大きい。
本書で紹介されている諸々の、これといって特にどこに行きたい、何を食べたいという場所やものを挙げていくことはなかなか難しいのだけど(挙げていくと切りがないとも言える)、次に京都を訪れるときに、街を見る目がだいぶ変わってくるような、そういう本である。
末尾近くに、こうある。
「だから京都という街を知るには、味わうには、京都に友人を、あるいは親戚を、ひとり作ることである。これにかぎる」
しかしそればっかりはご縁というもので、その点で自分が恵まれていたことに感謝したい。といっても、まだまだ知る・味わうの域には至っていないのだが。
というわけで、これを読む準備としての『フランケンシュタイン』だった。
前半は小説がどういう構造になっていて、どういう手法が使われているのか、といった、まさに「解剖」と言うべき読み方の手ほどき。後半は、ある作品に対して、どういう視点や角度からの批評の仕方がありうるのか、こういう批評スタイルだったら、この作品のこういうところをこういう風に語ることになる、という例示。作品が1人の人間だとすれば、前半が医学的分析だとすれば後半は社会的評価といったところか。
副題にあるように、素材として取り上げられるのは『フランケンシュタイン』で、やはり先にこの作品を読んでおいた方が、この本もいっそう楽しめるように思う。もちろん、この本を読むことで『フランケンシュタイン』がいっそう親しみの湧く作品になることは間違いない。
主眼は後半にあるのだが、さまざまな批評のスタイルを並列的に紹介していくのを読み進めていくと、著者にその意図はないのだろうけど、何となくそれぞれの批評スタイルのパロディのような趣を感じてしまう。そんなわけで、ふと思い出したのが斎藤美奈子『文章読本さん江』。
本書で取り上げられている批評スタイルのうち、楽しんで読めそうだなぁと思ったのは、精神分析批評、フェミニズム批評、ジェンダー批評(アップデートの必要がありそうだが)、マルクス主義批評、あたりかな。
図書館で借りたが、これは家に一冊あってもいいなと思うので、たぶん買うことになりそう。
この次に『批評理論入門』を読む予定なのだが、その題材として取り上げられている作品ということで、ひとまずこっちを先に読んでおかなきゃと思うのが似非教養主義者の悪い癖。
マッドサイエンティストが作ってしまった醜悪にして凶悪な人造人間である、この怪物の名前を知らない人はいないだろう。
…本当に?
いや、私もそう思っていた。だが、この作品を読みはじめると(いや読み終わっても)、自分がこの怪物の名前を「知らない」ことに気づかされる。
朝日新聞の読書サイト「好書好日」の編集長を務める加藤修は、学生時代、特にスパイシーでも何でもない、昔ながらの洋食屋的なカレーの香りをかいだだけで汗をかく私のことを笑って、「パブロフくん」と呼んだ。だがパブロフは犬を使って実験した研究者の名前であって、条件反射を示した犬の名前ではない。
それと同じように(同じか?)、フランケンシュタインというのは、件の怪物を作ってしまった科学者の名前であり、実は怪物には名はないのだ。そのことを知るだけでも、この作品を読む価値はある。
…などと冗談めかして書いているが、真面目な話、実際のところ、読む価値のある作品だ。設定・進行にやや無理を感じる部分はあるし、19世紀初めに書かれたものなので古めかしさはあるのだけど、とはいえ、この作品の主題が現代のさまざまな問題に通底していることは一読して明らかであるように思う。まぁこの作品に対してどういう読み方があるかは『批評理論入門』が徹底して明かしてくれるだろう。
主要紙でも好意的な書評がずいぶん出ているようだが、実際に読んでみると、これは人に勧めにくい小説である。
いや、貶しているわけではなく、とても良い作品で、私自身は読み終わった後すぐに二度目に取りかかろうとしたほどなのだけど、人に勧めるにあたっては「読む覚悟はありますか」と念を押す必要がありそう。文学的直球。しかも打ちにくいコースに投げ込んでくる。まぁ著者のこれまでの作品もそうだったかも。
幸福な読後感を期待してはいけない。救いがまったくないとは言わないが、今そこにある希望の有効期限はボールペンを1本使い切る未来まで、のように思える(もちろん、その次のボールペンもあるのかもしれないが)。
金原ひとみの「徹頭徹尾息が詰まるような低酸素的息苦しさに満ちている」という評価には共感するが、斎藤美奈子の「コロナ小説の中でも出色のできだと思う」は如何なものか。新型コロナは舞台装置の一つではあっても、この作品の本質はそこではなかろう(なお批評の質にはさほど影響していないのだけど、この2人は主人公の設定について共通の誤読をしている)。
先日我が家を訪れた文芸評論家は「芥川賞あるね」と言っていたけど、この作品が昨年を代表しているのであれば、なるほど今は希望に溢れた幸福な時代ではない。