鴻上尚史『愛媛県新居浜市上原一丁目三番地』(講談社)

鴻上さんの、小説ということにはなっているけど、どこまでフィクションの要素が入っているのか判断しかねる、自叙伝と呼んでもいいのではないかと思うくらいの作品集。これまでにもエッセイなどで語られてきた、たぶん事実に基づいているのであろう話も、二篇目を中心にふんだんに出てくる。

けっこう、しんどくて辛い内容である。時代の寵児みたいな扱いをされることもあった人だし、成功者だとは思うけど、まぁそれでも、しんどい人生を歩んできたのだなと思う。

しょうもない感想だけど。

 

シュテファン・ツヴァイク『チェスの話 ツヴァイク短編選』(みすず書房)

何やら、この作品を原作とする映画が公開されるようなので、ふと興味を惹かれた。

著者の名は何だかよく目にするような気がするけど、何を書いた人なのかよく知らない。『マリー・アントワネット』とか『メアリー・スチュアート』といった伝記文学が有名、とのことだが読んではいない。解説の池内紀によれば、通俗と見なされてドイツ文学界ではあまり評価されていないのが残念、ということのようだ(ただし同氏の解説についてはAmazonのレビューで厳しい指摘がなされている)。

四篇の短編が収録されているのだが、どれもなかなか面白い。

しかし、刊行が2011年なのに、なぜ新訳で出さなかったのだろう、という疑問が湧く。訳者4人はいずれも1920年代の生まれで、実際にこれらの作品を翻訳したのがいつ頃なのかは不明だが、当然ながら古くささは否めず、「さすがにこれはちょっと…」と感じる部分がいくつかある。たとえば「何を僕が一体君にしたんだい?」(本書P113、『不安』)などという訳し方は、原文のドイツ語の語順がそうなっているのだろうけど、現代の翻訳者ならまずやらないだろう。「いったい僕が君に何をしたというんだい?」くらいか。

とはいえ、作品を楽しむ上でそういう翻訳の古さが致命的かというと、そうでもない。むしろ、昔の翻訳者の力量の高さに驚かされる方が大きいと言えるかもしれない。何しろ作品中に出てくるあれこれをインターネットで調べるなんてことはできない時代だったはずだから。

ちなみに、映画のサイトを見ると、よくあることだが、原作『チェスの話』からはかなり乖離した内容になっている模様。原作もかなり壮絶でドラマチックな内容なのだけど、心理的な描写が多いので、そのままでは映像作品にはならないのだろう。面白そうではあるが、映画を観るかどうかは何とも言えない…。

筒井康隆『家族八景』(新潮文庫)

先日、『日本以外全部沈没』を読んで、どの作品もかなりつまらなかったのだけど、そういえば『七瀬ふたたび』『エディプスの恋人』は、名前をよく知っているのに読んだことがないなと思い、まず、その前物語とも言えるこの作品を読んでみた。

これはなかなか傑作。読心能力を持つ主人公・火田七瀬が目にする「家族」の心の内は、やはりきわめて猥雑で下劣であり、露悪趣味を感じる部分もあるけど、『日本以外…』のように誇張されて鼻につく印象はない。

それにしても、主人公はこの八篇の中で、直接一人を発狂させ、二人(あるいは三人)の死を間接的にもたらすのだから、なかなか罪深い存在である。

いずれ続篇二つも読むことになりそう。

下野康史『ポルシェより、フェラーリより、ロードバイクが好き』(講談社文庫)

かつて、20世紀の最終盤にあたる10年くらい、「NAVI」という自動車雑誌を愛読していたのだけど、この雑誌でよく書いていた自動車評論家。自転車乗りでもあったのか。そういえば姉妹誌というかスピンアウトみたいな形で「Bicycle NAVI」というのも何号か出ていたような気がする。

というわけで、著者の名前の懐かしさだけで手に取ったのだけど、序盤から固定ギアを推してくる。「ゆっくり走っても楽しめる」「特殊な自転車であることはもちろんだから、めったやたらに人に薦められるものではない」「自転車をこぐ楽しさにおいて、固定ギア以上のものはないとぼくは信じている」

「坂バカ」でもあるようだし、たいへん楽しめる内容だった。

中村文則『逃亡者』(幻冬舎文庫)

何かの折にこの作品が目に入り、新聞連載時に読んでいた記憶はあるのだが、ラストまで完走したのか自信がなくなり、手に取ってみた(諸般の事情で、新聞連載が完結する時期に数週間にわたって新聞購読を中断してしまう年があり、熱心に読んでいたのに結末を知らないという場合がけっこうある)。

政権・社会の右傾化や、いわゆるネトウヨなど非知性的な人々の群れについて、こうした小説の中で言及されているのを目にするのは端的に言って好きではない。そういう現実に日々接しているからウンザリというのもあるし、そうした直接体験に比べて、どうしても嘘っぽいというか、何を指しているのか一目瞭然なのにわざとらしい架空名が使われているときに感じるようなハリボテ感を受けてしまう。

というわけで、新聞連載時には、この作品のそういうところが鼻についていたような記憶があるのだけど、今回再読してみたら、意外に大丈夫だった。もはや、そんな不満を言っていられないほど、そうした空気が現実の中に満ちてしまっているせいかもしれない。

タイトルに示されるサスペンス的な部分もかなり読ませるが、価値が高いのはやはり長崎に関する叙述だろうか。

 

木村紅美『夜のだれかの岸辺』(講談社)

美しい装幀だが、内容はあいかわらず(?)、読むのに覚悟を要するくらい、苦い。

これはあるいは著者の他のいくつかの作品にも共通することかもしれないけど、物語が進むにつれて、主人公とそれ以外の登場人物とのあいだで、世代や境遇の違いを超えて、その人格の境界が融合していくというか、自他の区別が少し溶け合っていくというか、そういう揺らぎが生じていくような感覚を抱く。そしてその揺らぎは、作中の人物と、読んでいる自分とのあいだにも生まれているように思う。まさに文学の文学たる所以なのか。

私はそれほど映画を観る方ではないので、作中での数々の映画作品への言及が響いてこないのが、(作品ではなく読者の側の)残念なところ。そのあたりに通じた人だったら、もっと深く味わえるのかもしれない。

前作『あなたに安全な人』も含めて、これもまたいずれ読み返すのだろうと思いつつ、そのハードルを超えるにもまた覚悟がいるのだろうなと…。

もんじゅ君『もんじゅ君対談集 3.11で僕らは変わったか』(平凡社)

図書館に行ったら、坂本龍一追悼のコーナーが設けられており、その中にこの本があった。区の図書館なのだが、そういうところがなかなか優れている。指定管理者制度のもとでの運営のはずなのだが。

それぞれの対談が行われたのは震災・原発事故から2~3年後と思われるので、さらにその後の社会の劣化を目の当たりにした後で読むと、この頃はまだ希望があったのかもしれない、とさえ思えてくるのが辛いところ。

とはいえ、そういうシリアスな認識とは離れて、特に奈良美智や鈴木心が語る内容には興味深いものも多い。もちろん坂本龍一も。國分功一郎については(甲野善紀も)、他の著作をいくつか読んでいるので、そこまで新鮮味は感じなかったが、とはいえ、これを機に未読だった『原子力時代の哲学』を購入してしまった。

内田樹『生きづらさについて考える』(毎日文庫kindle版)

久しぶりにウチダ先生の著作を読む。

あいかわらず、膝を打つ叙述はたくさんあって、読む価値のある本ではあるのだけど、これまでも、退却戦を殿(しんがり)に立って戦うことを旨としてきたと思われるウチダ先生だが、ここに至って、かなり諦念の比率が高まってきたような印象を受ける。そして、その気持ちは大変よく分かると言わざるをえない昨今の状況である。

 

澤康臣『事実はどこにあるのか 民主主義を運営するためのニュースの見方』(幻冬舎新書)

この本の優れた点は、著者が相当に理想主義的であるところだ。本文中では、現実と理想の対比はさらりと触れられている程度だけど。

全体を貫いているのは、賢明な、いや正確には「賢明でありたいと願う」市民が、何らかの形で関与しつつ社会を運営していき(”This is what democracy looks like.”)そのために必要なリソース(の一部)をジャーナリズムが提供する、という理想主義的なビジョンだ。

もちろん、先日の統一地方選挙前半の低投票率にも象徴されるように、この社会のかなりの部分は、自分が「民主主義を運営する市民」であるとは露ほども考えていないだろうし、そもそも「市民」を罵倒語として使う連中すらいる。そういう人たちは決してこの本を(あるいはどの本も)手に取らないというのが現実だろう。

とはいえ、「現実は…だから」を根拠とする「現実主義」的な言動は、よく言えば冷笑的であり(よく言ってないね)、わるく言えば、というか実際にはその大半は欺瞞であると私は思っている。

その「現実」は、実際には特定の視点から恣意的に切り取られた一側面でしかなく(場合によっては一側面ですらなく)、しかも、そういう現実主義者にはその「現実」を主体的に変えていく意志も能力もまったく欠如しているのだから。

というわけで、できれば「現実主義者」に堕することを避けたいと願っている自分にとって、遠慮がちにではあれ理想の旗を掲げてくれている本書の著者は、だいじな一つの道標とでも言うべき存在である。

 

山岡洋一『翻訳とは何か 職業としての翻訳』(日外アソシエーツ)

翻訳の仕事に手を染め始めたばかりの頃に読んでいれば、と思わずにはいられない。2001年の刊なので、昨今のAI翻訳の発達についてはもちろん考察されていないのが今となっては物足りないのだけど、まだ自分の翻訳スタイルが確立していない頃の人が読めば非常に刺激になるのではないかと思う。

たとえば「『直訳』も『意訳』も、もっぱらそれを非難する文脈で使われる」という指摘なんかは、なるほどと膝を打つ思いである。

ポー『モルグ街の殺人』の一節の訳を三通り紹介しているのだが、最も古い森鴎外の訳が最もこなれているように感じるというのも面白い。

版元品切れになっているようで図書館で借りたのだが、これは古書店で見つけたら迷わず購入する。

英語(外国語)→日本語への翻訳に偏った内容になっているけど、そもそも、ある言語への翻訳はその言語を母語とする者がやるべき、という原則に立っているので、それは当然かもしれない。もっとも実際には、和→英の翻訳は、日本人がやって英語のネイティブスピーカーに校閲をお願いするというパターンが多い。そういった仕事が多い家人に言わせれば、「そもそも日本人でさえ解釈に困るような日本語が多いから、やむをえない」と…。