唐沢孝一『都会の鳥の生態学-カラス、ツバメ、スズメ、水鳥、猛禽の栄枯盛衰』(中公新書)

近所の緑道で何年か前からオオタカが営巣するようになり、バードウォッチャーが集まるようになったこと。今春、恐らく近所の公園でカラスのつがいが営巣し(ワイヤーハンガーを咥えて飛ぶ姿も見た)、子育てをしている様子が窺えたこと。

そんなことが誘因になって、身近な野鳥に関心が向き、この記事で紹介されていた本書を読むことになった。

いや、実に面白い。上記のような事情があるので、カラスの章と猛禽類の章が特に興味深かったのだけど、もちろん、それ以外の章も。超高層ビルの存在が、都心にハヤブサの生息環境を生み出しているというのが、特に印象に残った(ハヤブサを目撃した経験はないのだけど)。

生態学というのは社会学なのだろうなぁ。

見坊行徳・三省堂編修所『三省堂国語辞典から消えたことば辞典』(三省堂)

話題になっていた本。頭から通読するというよりは、拾い読みでいいかもしれない。時代もジャンルも、あるいはメディアの種類も、かなり雑食で摂取している方だと自覚しているが、それでもさすがに見たことも聞いたこともないような単語も、中にはある。

 

寺尾紗穂 『日本人が移民だった頃』(河出書房新社)

基本的に、戦前にパラオに移民した日本人の「その後」を追ったドキュメンタリー。帰国して国内の他地域に改めて「入植」した人もいれば、国内に居所を見つけられず、改めて南米(本書ではパラグアイ)に移住した人もいる。いずれも苦労を重ねている印象が強いが、どこか、郷里や母国を離れた、ある意味で根無し草であってもしっかりと人生を続けていく人たちの、たくましさと言ってしまうとあまりにも陳腐に思えるような強靱さを感じる。

これから「移民」を受け入れていかなければ回っていかないであろう日本社会についての言及・考察は、期待していた分、やや物足りないのだけど、それを補って余りある「厚み」のある労作。

 

カル・フリン『人間がいなくなった後の自然』(木高恵子・訳、草思社)

産業の衰退や戦禍、事故などの理由で「人間がいなくなった」地域で自然がどのようによみがえっているか(あるいは、よみがえっていないか)、という視点での大部なルポルタージュ。

自然はあっけないほど易々と回復していくものだな、という希望もあれば、人間はここまで取り返しのつかない打撃を与えてしまっているのか、という絶望もある。どちらかといえば…希望の方が大きいかもしれない。

農業が放棄された土地における二酸化炭素吸収量の大きさといった話は、春から夏にかけてオママゴト程度の農作業にいそしんでいる我々としては、実に興味深い。確かに、我々が活動している小さな畑に隣接するエリアの雑草(?)のものすごい繁殖力ときたら…。

アーネスト・ヘミングウェイ『日はまた昇る』(新潮文庫)

先日依頼を受けた翻訳原稿が、牛追い祭りで有名なパンプローナとヘミングウェイのご縁についての内容で、文中に本作品からの引用が1カ所あった。念のため既訳を参照しようと思って、買い物に出た家人に頼んで駅前の書店で買ってきてもらった(こういう作品をサッと当たり前のように買えるのが、この「駅前の書店」の優れた点である)。当該箇所はすぐに見つかったのだけど、ちょっと意訳しすぎている気がして、結局、自分のオリジナル訳にした。

で、せっかくだからと思って、読んでみた。

けっこう面白かったのだけど、印象的だったのは、パリからバイヨンヌに鉄道で移動し、そこから車を雇って国境を越え、スペインに入る部分。スペインに入ってからの描写が、まさにブエルタ・ア・エスパーニャの中継で目にする風景を彷彿とさせる。と思っていたら、終盤、主人公はサンセバスチャンで現地のレース(クラシカ・サンセバスチャンとは書いていなかったと思う)に参戦するプロ自転車チームの面々と出会い、「ツールドフランスはすごいぞ」みたいに売り込まれる(笑) 翌朝のスタートを見送ろうかと思ったのだけど、起きたらスタート時刻はとっくに過ぎていた、みたいな展開。

釣りが好きな人のための場面もある。

当該の記事は、今でも、ヘミングウェイのこの作品に惹かれてパンプローナを訪れる人は多い、みたいな内容だったのだけど、さもありなん、と思わせる佳作。

 

小野寺拓也、田野大輔『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』(岩波ブックレット)

良書。

巻末のブックガイドの最初に出てくる石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社現代新書)などをすでに読んでいるので、私としては「え、そうだったのか!?」という新しい発見はそれほど多くないのだけど、「ナチスは良いこともした」と主張する人たちが挙げる「良いこと」を、よく整理された論点で丁寧に検証している。その意味で、今後、一つのリファレンスとして有益な存在になる本(というか冊子)だと思う。

「おわりに」の部分で、「ナチスは良いこともした」と主張したがる人たちの動機や心理について考察しているのだけど、もちろん批判的な考察ではあるのだが、どことなく、その視線に温かみがあるところも、この本の優れたところだと思う。Twitterで眺めていると、この本を読みもしないで共著者である田野氏に噛みついている人がいるのだけど、そういう人への田野氏の応対も、けっこう穏やかで温かい。

片岡義男『彼のオートバイ、彼女の島(kindle版)』(ボイジャー)

続いて、この作品。

これはバブル華やかなりし頃、映画を観た覚えがある。監督は大林宣彦だったのだなぁ。ロードショーだが二本立てで、メインは『キャバレー』だったはず。

オートバイ愛が横溢している作品だけど、実際にオートバイに乗っている人が読むとどう思うのだろうか。「オートバイに乗ること」に憧れる人にとっては、いまも魅力に溢れる小説なのかもしれない、という印象。

まぁ私個人としては、かつてはいざ知らず、オートバイにはまったく関心が持てなくなってしまった。自分自身がエンジンである「バイク」に乗るようになってしまうと、ねぇ。

「島」の描写は良い。行ってみたくなる。輪行で。

 

片岡義男『スローなブギにしてくれ(kindle版)』(ボイジャー)

というわけで、片岡義男と鴻巣友季子の対談を読んだ関連で、片岡義男の作品を読んでみた。かつて、『彼のオートバイ、彼女の島』を読んだことがあるような気がするのだが、とりあえず、[代表作」とされている、これを。映画の主題歌である南佳孝の曲は馴染みがあるが、原作を読むのは初めて。

う~む、これでチャンドラーなどの作品について「表現は陳腐」とコメントするのは、ちょっとどうかと思う…。せめて、タイトルは本文中に出さないでほしかった。作品の多くは絶版になっているものの、このkindle版の版元でもあるボイジャーが運営する「片岡義男.com」で電子化が進められているという。ただ、この作家が再評価される可能性というと…なかなか厳しいのではないか。

かつて村上春樹『ノルウェイの森』がベストセラーになったとき、文芸評論家の誰かが(その後セクハラで問題になった人だったかもしれない)「朝日ジャーナル」で、「この二人の恋愛に感動した人は、島尾敏雄『死の棘』を読んで、通俗と文学の違いを知ってほしい」とコメントしていたのを思い出す。もっともこのとき私は、「それなら」とさっそく『死の棘』を読んで、「もちろんこれも凄い作品だけど、他方を通俗と腐す理由にはならないのでは?」と思ったものだが。

片岡義男・鴻巣友季子『翻訳問答 英語と日本語行ったり来たり』(左右社)

翻訳家の鴻巣友季子、作家であり訳業もある片岡義男が、英米文学の名作の冒頭を題材として翻訳を試み、それをネタに対談する、という構成。

片岡義男は、いろいろ偉そうなことを言うわりには、訳文そのものはそれほど上手くない。鴻巣友季子は専門家だけあって敬服してしまうが。

なお、末尾に、「Lost and Found in Translationという英語タイトルは片岡義男が考えた」という注記があるが、それなら、そもそも「翻訳問答」というタイトルが何をもじったものかにも言及すればいいのに、と思う(って、それは私の勝手な連想かもしれないのだけど)。

翻訳小説を読むのは好きでも、自分で文芸翻訳をやろうと思ったことはほとんどない私だが、これを読むと、ちょっと自分でもやってみたくなる。まぁそういう仕事は来ないだろうし、仕事の傍ら試みるような暇はないのだけど。

たまたま、この本を読んでいる間に受けた原稿で、ヘミングウェイの一節(といっても登場人物の会話のごく一部)を訳す必要があり、いちおう既訳も参照したのだが、あまり納得できるものではなかったので、結局自分で訳して納品したら、そのまま掲載されたようだ。

 

飯野賢治『息子へ。』(幻冬舎)

以前、bookmeterというサイトでこの本の感想を書いたことがあったようで、どなたかが何の弾みで発見したのかツイートしてくれたので、「こんな本読んだっけ?」と。

せっかくなのでkindleで購入して再読。著者はゲームクリエイターとのこと。息子に宛てた手紙という形で、福島第一原発の事故と、原発の是非について語っている。

かつて読んだのは2013年だったようだが、そのとき私は「しごく真っ当な内容。これくらいのことが『常識』になってほしいものです」という感想を書いている。今回も本書の感想としてはそれに変わりはないのだけど、それから10年が経って、「これくらいのことが常識にはならなかったのだなぁ」という苦い感慨がある。もしかしたら、2012年7月にこの社会は後戻りのできない道を選び、未来を捨てたのかもしれないなぁ。