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ジェイムズ・オーウェン・ウェザーオール『ウォール街の物理学者』(早川文庫、高橋璃子・訳)

何で知ったのかは忘れた。図書館で借りたのだけど、他のいろいろな本との兼ね合いで読み切れず、kindleで購入。

物理学者というより、特に前半は数学(確率、統計?)の比重が大きいように感じるのだけど、中盤以降、現代に近い時期に登場する人物の経歴では、数学・物理学などという境界に囚われることなく、けっこういろんな専攻分野を渡り歩いているようで、本当に、才能のある人というのはいろんな領域でその力を発揮するのだなぁと感嘆してしまう。

さて私が理解する限りでは、本書を煎じ詰めれば、

物理学者が金融の世界に持ち込んだのは単なる数式ではなく、世の中の問題を考えるための方法論だった。同じやり方が、経済のその他の分野にも役立つ可能性は十分にある。(エピローグ)

ということで、要するにその方法論とは、モデルを考案して、そのモデルが現実をどれくらいうまく説明してくれるのか検証し、そのモデルが通用しない場合は何が原因で、どうすればモデルを改善できるのか、というプロセスなのだろう。

ただ、どうにも腑に落ちなかったのは、金融市場にそうした方法論を適用する場合、何をめざしているのか、という点。本書の登場人物が編み出したモデルは、基本的には市場での運用に用いられる。つまり目的は、「利益を上げる」ことである。その考え方が広く知られるようになったり、あるいはモデルの欠陥が露呈してしまえば、ひとり勝ちはできなくなるわけだが。

しかし、そうやってモデルがどんどん改善されていくことで、金融市場というものは以前よりも良いものになっていくのか、そして「良い」というのは「誰にとって」「どのように」良いのか…。そのへんは、本書を読んでも今ひとつピンとこない。たとえば本書の例で言えば、大地震を予測できるようになれば被害を大幅に軽減できるとか、燃料タンクがダメになる兆候を察知できれば(劣化自体は防げなくても)事故を予防できる、というのは分かりやすい。しかし、市場暴落の兆候を察知できるようになると、察知した投資家自身は損失を免れる(というより暴落によって巨利を得る)ことはできるが、暴落そのものを防ぐことにはつながるのだろうか。あるいは下落をマイルドなものにすることで、誰もが致命的な打撃を受けずに、市場の動き自体を穏やかなものにしていくことができるのだろうか…。

さて、翻訳がかなり素晴らしい出来であることは特記しておきたい。2カ所ほど原文を確認したいと思う箇所はあったし、もちろん物理学・数学・金融市場の専門家が読めば注文をつけたくなるところはあるのかもしれないが、とはいえ、「読みやすい訳文を心がけた」という構えや意気込みを取り立てて見せることなく、いわば自然体でこの翻訳を生み出せてしまうのは敬服に値する。

 

チェーホフ『ワーニャ伯父さん/三人姉妹』(浦雅春・訳、光文社古典新訳文庫)

というわけで、映画『ドライブ・マイ・カー』繋がりで、この作品も。

亡母がロシア文学専攻でチェーホフが専門だった関係で家に全集があり、たぶん高校生の頃に代表的な戯曲は読んでいるはずなのですが、『ワーニャ伯父さん』は今ひとつ印象が薄い…。

新潮文庫だと『かもめ』とカップリングで、どちらにしようか迷ったのですが、数年前に『かもめ』の舞台を観た後で原作の戯曲を読んでいたので、それと被らない方がいいな、と『三人姉妹』が入っている方を選びました。ちなみにそのとき読んだ『かもめ』も浦雅春の訳でした。神西清の訳はkindleで無料で入手できるということもあり。

何というか、昨今の国際情勢もあって、二つの作品で描かれている「救いのなさ」と「希望」の両側面のうち、前者が切々と迫ってくる感じで、何だか憂鬱な気分にならざるをえません…。

ちなみに『ワーニャ伯父さん』の舞台はたぶん観たことがなく、『三人姉妹』の舞台は、30年(?)以上前にSCOTのものを観ただけ…。白石加代子の鬼気迫る演技が印象的でしたが、いま思うと、あれはきわめてチェーホフ的であったような気もします。その舞台での最後のセリフが「楽隊は、あんなに楽しそうに、あんなに嬉しそうに鳴っている。あれを聴いていると…」だったので、「音楽は、」と訳されているのは少し違和感があります。

ところで、件の映画を理解するうえで、こちらも読んでおくべきかというと、それもあまり必要ないのではないかな、という気がします。ま、映画は映画で独立した作品です。当たり前だけど。

 

村上春樹『女のいない男たち』(文春文庫)

映画『ドライブ・マイ・カー』を観た以上は、原作も読まねばなるまい。

未読の状態で映画を観た、と思っていたのに、Amazonで検索してみたら、「お客様は、2016/10/18にこの商品を注文しました。」と…。実際、このブログでも感想を書いておりました(笑) それくらい印象の薄かった一冊、ということか。

映画を観たときは随所で「うわ~、村上春樹だなぁ」と思ったのだけど、一番それを感じたセリフは実は映画のベースになっている3本の短編には存在せず、他の春樹作品をパラパラとめくっても今のところ発見できておりません。いかにもそれっぽいセリフを語らせるあたり、濱口監督はかなり筋金入りの春樹ファンなのだろうか…。

初読のときの感想に、

たまに、「○○を村上春樹風に書いてみる」みたいなパロディ(?)を見かけるのだけど、ほとんどの場合、「ああ、作品をろくに読んでいない人がやっているな」と思うだけ。似てないんだよね。

と書いたのですが、その意味では監督にみごとにやられた感じです。

さて、この原作を読んでいないと映画の理解に差し支えるかというと、全然そんなことはないように思います。劇中劇というか『ワーニャ伯父さん』を作っていく過程については原作とほとんど関係ないのですが、それ以外の部分についても、原作からはモチーフと、そう、語り口だけ借りてきたという感じで、映画は映画として先入観なしに楽しめるし、むしろその方がいいのではないかな。

黒川祐次『物語ウクライナの歴史』(中公新書)

にわかウクライナ通と笑わば笑え、不幸な出来事がきっかけであるとしても、こういう機会にこれまであまりご縁がなかった国や社会について多少なりとも知るのは、決して悪いことではないはずだ。

本書は駐ウクライナ大使だった著者が、紀元前からソ連崩壊後の独立に至るウクライナの歴史を、情熱と愛情を込めて語る体裁。一貫して「ウクライナびいき」ではあるのだが、なぜウクライナの独立がこれほど困難だったのかといった分析にしっかり冷静さが感じられる。

もちろん、昨今の悲惨な展開について日々の報道を追う際におおいに参考になることは言うまでもない。原子力発電所をめぐって頻繁に目にすることになったザポロージェという地名は実に由緒ある場所なのだなぁ、などという具合に。

この戦争は、今日(3月19日)の時点では、ウクライナの勝利(&ロシアの中長期的かつ不可逆な没落)に終るのではないかと私は思っているのだが、そうすると、ウクライナは著者のいう「ヨーロッパ最後の大国」として存在感を強めていく可能性は高いかもしれない。

個人的には、亡父が専門的に研究していたオノレ・ド・バルザックとウクライナ(相手はポーランド貴族だが)のご縁がいちばん印象に残った。

池内紀、川本三郎『すごいトシヨリ散歩』(毎日新聞出版)

川本三郎の新著は本屋で見かけるたびに買うようにしているので(そして地元のいつもの書店にはよく入荷する)、これもその一冊。

失われた/失われゆくものを嘆く部分もかなり多いのだけど、それでも、ああ、幸せってのはこういうものだよなぁと思わせる。

些細なことだが、「純喫茶」の「純」の意味を初めて知った(笑)

高水裕一『物理学者、SF映画にハマる』(光文社新書)

確か新聞の書評で見かけて、面白そうだなと思って読んでみた。まぁタイトルから想像できるように、親しみやすい、軽く読める本ではあるけど、タイムトラベルにせよ宇宙論にせよ、ベースとなる「物理学」は本格派である。諸々のSF映画作品で描かれている要素について、実際の物理学の知見に照らして考えるとどうなのか、ということを、野暮にならない程度にツッコみつつ、考えていく体裁。というより、SF映画を切り口に現代物理学を紹介している、と言うべきか。大学の一般教養課程における文科学生向けの自然科学系の講義だったら、大人気になりそうな雰囲気。

「ネタバレがあるので、題材にしている作品を観てから読んだ方がいい」と断り書きがあるが、自分がすでに観た作品を基準に判断すると、作品を楽しむうえで致命的とまでは言えないような気がする(私は観ていない作品の章も含めて全部読んでしまった)。ちなみに本書で取り上げられている作品のうち私がすでに観ていたのは、『ターミネーター』シリーズ、『ゼロ・グラビティ』、『スターウォーズ』シリーズ、『オデッセイ』。有名な『バック・トゥ・ザ・フューチャー』はなぜかご縁がなくて1作も観ていない。

同じ著者の『時間は逆戻りするのか』『宇宙人と出会う前に読む本』(いずれも講談社ブルーバックス)も読みたくなるが、他にも読まなければならない本が溜まっているので、しばらく我慢。

 

ノーム・チョムスキー、ロバート・ポーリン他『気候危機とグローバルグリーンニューディール』(早川健治・訳、那須里山舎)

TwitterでDeepLについて面白い考察を書いていらっしゃる方がいて、その方が翻訳されたのが本書。なかばお付き合いで購入したようなものだが(失礼!)、これがけっこう良かった。

グリーンニューディールについては昨年11月に岩波新書の1冊を読んでいて、そちらの方が手軽といえば手軽なのだけど、本書の方が財源の話などいろいろ具体的で、その分、希望を抱かせる内容になっているように思う。手に取るとけっこうなボリュームがあるように感じるが、そこまで難渋はしなかった。岩波新書を先に読んで一通り予備知識を得ていたからだろうか。しかし、どちらか一冊だけ読むなら、本書の方がいいかもしれない。

翻訳は、少し気になるところはあったものの、重たい真面目な内容のわりに、総じて読みやすい。しかしチョムスキーの文体というか語り口というのは、誰が訳してもこういう感じになるものなのかなぁ(笑) 原文で読んだことがないので確言はできないのだけど、そもそも当人の毒舌ぶりがあまりセンスがいいとは思えないので、しかたがないのかも。本来の言語学の著作だと、また違うのだろうが。

訳注が親切で、そこから得られる情報もかなり良い。訳者あとがきの後半部分は、本書の主題から少しばかり外れて機械翻訳(DeepL)の考察に充てられていて、そこももちろん面白い。それにしても、上に書いた「少し気になるところ」の一つはexistential crisisを「実存的危機」と訳す点で、個人的には「存亡の危機」の方が優るのではと思うのだけど、訳者あとがきで紹介されるDeepLの訳がまさに「存亡の危機」になっていて、何となく悔しい(笑) しかし、人類とか社会とか、そういう大きな主語について「実存」という言葉を使うのは、哲学科出身としては少し違和感があるのだよね…。

 

 

『源氏物語(七)匂兵部卿~総角』(岩波文庫)

引き続き、枕元に置いて、寝る前に少しずつ読み進める。

どの登場人物にもあまり感情移入できないのは本編同様で、薫、匂宮、大君、中の君、いずれも何だかなぁという感じである(笑) 本編では、紫の上が(境遇の割には)いちばんまともな人に思えたかな…。

それにしても、やはり舞台が京都の街中(?)から離れると物語に変化が生じてなかなかよろしい。宇治川といえば京都競馬場くらいしか思い浮かばないのだけど、いずれ宇治市源氏物語ミュージアムにも行ってみたいものだ。

一巻読み終えるたびに次の巻を買っていたのだけど、残り二巻は一気に買ってしまった。といっても読むペースを上げるでもなし。まぁ夏頃には読み終わるのではないか。

スズキナオ『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』(スタンド・ブックス)

誰か(たぶんあの人)が書影をアップしていて、気になって読んでみた。

タイトルからはもっと社会派的なマジメな内容を想像していたのだけど、先に著者プロフィールを見たら、なんだ、デイリーポータルZで書いている人じゃないか。そういえば、けっこう話題になっていた「銭湯の鏡に広告を出した話」も収録されている。

デイリーポータルZは欠かさず読んでいるというわけでもないが好きなので、一気に読む。家人は、デイリーポータルZは下品なところがないので好き、と言う。昔エログロナンセンスという言葉があったが、デイリーポータルZにはナンセンスはあってもエログロはない。しかしめっちゃ面白い。そして、たまには役に立つし、それよりも高い頻度で勉強になる。

この本にも、そういう文章が多い。「店選びを完全に自分の父親に任せるハシゴ酒」やマイ史跡は何だか泣けるし、チェアリングや「チャンスがなければ降りないかもしれない駅で降りてみる」はたまには試みたい。あと、長野方面に何かとご縁があるのだから野沢菜は買おう、などと思う。

藤崎慎吾『我々は生命を創れるのか-合成生物学が生み出しつつあるもの』(講談社ブルーバックス)

『批評理論入門』を読んで『フランケンシュタイン』を読む人もいれば、私のように『批評理論入門』を読むための予習として『フランケンシュタイン』を読む人もいるだろう。しかし『フランケンシュタイン』を読んで、本書を読もうと思う人は少ないのではないか。何しろ『フランケンシュタイン』では、「いかにして生物を生み出すか」自体は重要なテーマではないからだ。

とはいえ、図書館に行って、習慣でブルーバックスの棚を眺めているうちに、こんなタイトルの本が目に入り、『フランケンシュタイン』にも言及されていると分かれば、つい読んでみたくなるではないか。え、ならない?

もちろんこの本では人間並みの生物を作ろうなどという話ではなく、紹介される科学者たちが考え、試みているのは、そもそもこの地球上にどのように生命が誕生したのか、そして生命と呼びうる「細胞」を人工的に作ることはできるのか、といったレベルの話だ。

ブルーバックスのシリーズは、最初の導入部は読みやすいのに、だんだん話が難しくなって、最後の5分の1くらいはちんぷんかんぷん、という本がけっこう多いのだけど、本書の著者は、この分野を専門に研究する科学者ではなくサイエンスライター兼小説家なので、最初から最後まで(もちろん部分的には難しい話も出てくるのだが)楽しく読ませてくれる。ぬいぐるみや自動車などにも「いのち」を感じる私たちは何をもって「生命」と考えているのか、というところから始まって、ビッグバン、パリティ対称性の破れにまで話が及んでしまうのだから、化学・生物学は言うまでもないとして、哲学や社会学から物理学に至るまで、まさに人間の知の領域を縦横無尽に駆けめぐるように「生命」が語られている本である。

2019年8月に出版された本だが、もちろん当節流行りの(?)ウイルスやワクチンについて考える際にもベースになる話だ。

というわけで、著者の願いに応えて、こう書いておかなければなるまい。

「これ、すごく面白いよ」