2020年に読んだ本」タグアーカイブ

葉室麟『花や散るらん』(文春文庫、kindle版)

蔵人・咲弥夫妻もの、二作め。

いわゆる「忠臣蔵」、つまり「松の廊下」刃傷沙汰から赤穂浪士討ち入りに至る事件をバックに、本編の主人公たちの活躍がサイドストーリーとして進行するような構成。したがって、浅野内匠頭、吉良上野介、大石内蔵助といった著名な人物も登場し、興味深い描かれ方をしている。

この作品もタイトルは和歌から取られたもので、あれ、「久方の…」だったら「花ぞ散るらん」だよなぁと思っていたら、別の歌だった(謡曲「熊野」に出てくるということは、元は「平家物語」にも出てくる歌なのかな?)

引き続き、新聞連載で読んだ第三作へ。

 

 

葉室麟『いのちなりけり』(文春文庫、kindle版)

珍しく剣豪小説など読んでみる。

東日本大震災のときもそうだったのだが、時事翻訳を中心にやっていると、このようなご時世では何かにつけて関連の記事ばかり翻訳しており、もちろん自分でもいろいろ情報を収集するので、「そういう話」ばかり目にすることになる。いいかげんウンザリしてくるというか、けっこう真面目な話、精神的に負担がかかってくる。

そういうときには、身体を動かすのと(これは自転車通勤の頻度を高めているので足りているとして)、ストーリー性の高い、中程度の長さの小説を読むのがよい。震災のときは『初秋』を皮切りにスペンサー・シリーズに救われた。先般読んだ『イリアス』『オデュッセイア』も、まぁその部類の読書に入れてもいいのだけど、じゃっかん長いし、教養主義すぎる(笑)

葉室麟は、何年か前の新聞連載小説をわりと面白く読んだ。と思ったらまもなく急逝してしまい、愛読者でもないのに残念に思ったものだ。連載されていた『影ぞ恋しき』は、雨宮蔵人・咲弥夫妻もの三部作の三つめ、ということなので、せっかくだから最初の本作から読む。

時代小説、剣豪小説は、吉川英治『宮本武蔵』『鳴門秘帖』や、子ども向けだが『鞍馬天狗ー角兵衛獅子の巻』、途中までだが中里介山『大菩薩峠』あたりを読んだことがあるのだけど、最近では上述の『影ぞ恋しき』以来だし、中編を一気に読み通すのは久しぶり。

で、翻訳小説が苦手な人とは逆に「わ~、人の名前が漢字ばっかりで辛い~」「なんで途中で名前が変わるの~」と戸惑うこと頻り(『大菩薩峠』とかは牢人・市井の人物ばかりなのでそうでもないのだが、大名とか侍はけっこう名前が変わるのだ)。

とはいえ、愉快に読める。表題の『いのちなりけり』は古今集の和歌の一節から来ていて、教養ある美女(咲弥)が、夫となった無骨な武士(雨宮蔵人)に対して、「あなたの心を示す、好きな和歌を教えてくれるまでは寝所は共にしない」と問うが、蔵人は「無学なもので…」と俯いてしまう。で、紆余曲折あってその後長くに渡って夫婦は離ればなれになるのだが、そのあいだ蔵人は健気に和歌を勉強して、自分の心に合う歌を探す、というお話。もちろん剣豪小説ゆえ、その間、斬り合いや陰謀はいろいろあるのだけど。

既存の有名作品と同じ時代を舞台にしているので、水戸黄門・助さん・格さん(と後に呼ばれるようになった2人)も出てくるし(ただし、本作での水戸光圀は好悪の別れる描写である)、吉良上野介も出てくる(彼は次作でも重要な登場人物になるようだ)。

当然ながら、さっそく次作へ。

野矢茂樹『哲学の謎』(講談社現代新書)

「世界は実在するのか」「時間とは何か」「自由意志はあるのか」などなど、哲学の基本的な「謎」を対話形式で考えていく、「さまざまな哲学的問題に対する私の思考のドキュメント」(あとがき)。

二人の人物の対話になっているが、まぁこれは「私」の自問自答なのだと思っておけばいいだろう。この手の構成にありがちな、しょうもないボケ&ツッコミはまぁご愛敬ということで。

これも特に「最終的な結論はこれだ!」という流れにはなっていないので、そういう意味ではオープンな印象で、悪くない。

『はじめて考えるときのように』を先に読む方が良さそうだが、これも悪い本ではない。それなりに読書の習慣のある人はいきなりこちらでもいいかもしれない。

ただ正直なところ、私が『「自分で考える」ということ』を入り口にして哲学にハマったように、これらの本を読んでハマっていく人がいるのかどうか、ということはよく分からない。当たり前のことで、どこにドアが開いているかは人それぞれ違うのだろうし。

それと平行して、では、自分が哲学の何に魅力を見いだしたのかを自分なりに伝えるとすれば、どんなふうに書くのだろう、という思いも湧いてきた。もちろん私は専門家ではないので「個人の感想です」程度のものになってしまうのは避けがたいのだけど。

 

野矢茂樹・植田真『はじめて考えるときのように』(PHP文庫)

池田晶子『14歳からの哲学』に続き、「哲学とはどういうもので、何がその魅力なのか」を人に伝えるとしたら、どんな伝え方があるだろうか、というテーマでの選書。

ほぼ並行して読んでいた同じ野矢さんの『哲学の謎』と合わせて、なかなか良い本で、『謎』よりもこちらの方が読みやすい。『14歳からの哲学』と違って「答えを言ってしまう」という押しつけがましさも薄いような気がする。「ことば」についての思索の比重が大きいのは、論理学に強い著者の面目躍如といったところか。

哲学史的な知識はほとんどまったく出てこないが(わずかにプラトンが引用されているくらい)、すなおに、ただし徹底的に考えるとはどういうことか、は分かるのではないか。

あまりにもやさしい言葉で書かれているので、この本を読んでから、では何か他にも読んでみようと哲学書を手にとっても、ちょっとギャップが大きくて辛いかもしれない。しかしある程度哲学書を読んでから、ふとこの本に戻ってみると、まさに「はじめて考えるとき」はこのようであった、という原点に戻れるようにも思う。

植田真の挿絵は、言ってみれば、この本の「謎」である。私はつい野矢さんの書く本文だけを追ってしまうのだけど、この挿絵がどういう位置づけで何を意味しているのか、というのをじっくり考えてみるのもまた一興だろう。

 

ホメロス『オデュッセイア(下)』(松平千秋・訳、岩波文庫)

波瀾万丈の冒険を潜り抜けて、故郷のイタケに帰還してめでたしめでたし、という話のように記憶していたが、そうではなかった。帰還して、その後の話がけっこう長いのだな。

ただ正直なところ、その部分はさほど面白いとは思えない。何というか、女神の助力による部分が大きすぎるような気がして、そりゃまぁうまく行くよなぁとは思うけど、ご都合主義に過ぎるのでは、という印象。

これもやはり『ホメーロスのオデュッセイア物語』を子どもの頃に読んでいるのだが、『イリアス』に比べて読み返した記憶が薄い。やはり『イリアス』の方が面白かったのかな。

さて『オデュッセイア』を読んだところで、この作品についての熱心な分析があった『啓蒙の弁証法』を読み返すと、また違った印象が得られるのだろうか…。

 

 

ホメロス『オデュッセイア(上)』(松平千秋・訳、岩波文庫)

少し寄り道したものの、『イリアス』に続いて、『オデュッセイア』へ。

言わずと知れた、トロイア戦争の英雄の一人であるオデュッセウスが苦難の長旅の末に故郷に帰着する物語。困難な長旅や探求をodysseyと称するのは、ここから来ている。2001:Space Odyssey(邦題『2001年宇宙の旅』)みたいに。これもやはり、たぶん小学生の頃に子ども向けのバージョンで読んでいるので、あまりハードルは高くない。

で、オデュッセウスが主人公のはずなのだが、100ページ以上読んでも本人は登場しない。そして知略並ぶ者なき英雄であるはずなのに、オデュッセウスくん、けっこうお馬鹿な失敗もやっている(笑)

それにしても、こういう時代的にも内容的にも浮き世離れした作品を読むのは楽しいなぁ。以前にも触れたように、3.11のときにはロバート・パーカー『初秋』に救われたものだが、今回もやはり、こうした作品に逃避しているのかもしれない。

引き続き、下巻へ。しかしもう、覚えのある冒険はだいたい済んでしまったような気がするのだけど、あと何だっけ?

 

池田晶子『14歳からの哲学 考えるための教科書』(トランスビュー)

たぶんちょうど14歳の頃に「哲学」という考え方に魅了されて、途中で少し迷う過程はあったものの、結局、大学でも哲学専攻課程を選択した。あまり勉強しない不良学生だった(芝居ばっかりやっていた)こともあって、もちろん大学院に進むことはなかったし、当然ながらその後も、哲学とはほとんどまったく縁の無い仕事に就いている(というか、哲学に直接ご縁のある仕事なんて世の中にほとんどない)。

けれども、そういう形で哲学をかじったことは自分にとってすごく良かったと思っているし、今もいわばアマチュアとして楽しんでいる。あまりそういう言葉で評価されることのない学問分野だけど、「役に立っている」とさえ思っている。

そんなわけで、他人にも「哲学いいよぉ、面白いよぉ」とお勧めすることはためらわないのだけど、では何か手始めに読む本を紹介してくれ、と言われると、これがなかなか難しい。

私自身は上述のように中学生の頃、澤瀉久敬『「自分で考える」ということ』という優れた講演集に出会ったのだけど、残念ながら、とうの昔に絶版になっている。今も入手しやすい適当な本は何かないか、と思って読んでみたのが、この本。

う~ん、残念ながら、哲学への入口としては、あまりお勧めしない。

第一印象としては、中学生くらいの子どもに語りかけるという点を意識しすぎたのか、あまりにも饒舌である。「…なんだ」「…だよね」みたいな語尾が頻出していて、さすがに文章として読むにはクドい。そのわりに、「…するところの○○」といった一昔前の(刊行は21世紀に入ってからの本なのだが))表現も多用されていて、ちょっと辛い。

そして哲学への入口という意味でお勧めしない最大の理由は、本書は著者・池田晶子の考える哲学が「答え」として押しつけられてしまっているように見えるという点だ。オープンな問いではなく、ゴールになってしまっていて、その先がない。

池田晶子の提示する哲学自体はとても優れたものだと思うし、これを読んで「救われる」中学生がけっこうな数いたとしても不思議はない。その意味で悪い本ではないし、若い人が読むべき本であるとは思うのだけど、14歳「からの」哲学というよりは、ここで終ってしまうような気がする。本書には参考文献の類がいっさい示されていないし、過去の哲学者の名前も著作の名前も一つも出てこないので、こういうものの考え方に興味を持った人が「では次にこれを読んでみよう」という流れにはならない(というか、そもそもそういう思いを抱かないかもしれない)。

というわけで、「哲学ってどんなものかな」と思う人には、本書はお勧めしない。

望月昭秀『縄文人に相談だ』(縄文ZINE Books)

友人が読んでいるとのことで気になった。何しろゴールデンウィークや夏休みを過ごすことの多い茅野市は「縄文のヴィーナス」に象徴される縄文文化の聖地(?)なので、縄文と言われるとつい反応してしまう。

現代人のさまざまな悩みに、縄文人(になりきった著者)が回答するという作りなのだけど、寄せられる悩みも本格的なものはそれほど多くなく、回答もバカバカしいと言えばバカバカしい。

では、読む意味のないくだらない本なのかというと、そう捨てたものではなくて(まぁくだらない本かもしれないが・笑)、『僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう』のなかで羽生善治が言っているように、大事なのは「様々な種類の物差しを持つ」、つまり複数の評価軸を持っておくことなのだ。

その意味で、この本はふざけた調子で書かれてはいるけど、現代とはかけ離れた価値観で悩みを見直してみるというアプローチ自体はきわめてまともだし、ときには有効である場合もありそうに思える。そもそも、読書をする意味の一つは、自分とはかけ離れた価値観を知ることなのだしね。

星野道夫『旅をする木』(文春文庫)

先月、京都の古書店で購入。

美しい本。

「I」に収録された9編は、「今、……を旅しています」みたいな書き出しで始まる、まるで誰かに送った少し長めの書簡のような体裁。これは誰かに宛てた手紙なのか、それとも雑誌の連載か何かで読者に語りかけているという形なのか。巻末で初出を確認しようという誘惑に駆られるが、ふと「自分宛てに書かれた手紙だと思えばいい」と思い至り、そのように読めば、ひときわ味わい深い感じ。

「II」以下は通常の文体で書かれたエッセイなのだが、いずれも噛みしめて味わうに値する文章。もちろん若いうちにこれを読んでいれば(アラスカを訪れるかどうかはさておき)影響される点も多々あったかもしれないが、今さら夢を追うでもない年齢で読んでも、何とはなしに得るものの多い本だと思う。

しかし、著者が体験したようなアラスカの自然がこれからも残っていくのかというと、恐らくそれはかなり難しいのだろうな…。

解説は著者と親交あった池澤夏樹。彼は小説家で、エッセイの類いも多いが、文章は星野道夫の方がいいのではないか…。

 

 

ホメロス『イリアス(下)』(松平千秋・訳、岩波文庫)

怒濤の勢いで読了。

以下、やくたいもない感想を並べる。ネタバレもあるけど、これだけ有名な作品なんだからいいよね。

(1)すべては神々が悪い。読みながら、「あ~、もうよけいなことするな~!」と叫びたくなることがしばしば。古代ギリシャの人々というのは、ある種の無常観というか、諦念を帯びた世界観を持っていたのではないだろうか。バカどもが偉そうな顔をして操っている世界なんだから、我々の運命が不条理でもしかたがないよ、みたいな。まぁ実際、ままならない自然現象に翻弄される程度も今よりはるかに大きかった時代なのだから、そういう世界観になるのが普通か。

(2)愛と美の女神アフロディテが戦いにおいて弱いのは無理もない。しかし軍神アレス弱すぎ。神格の低さゆえなのか。

(3)上巻でも感じたのだけど、比喩が面白い。特に、「いっかな退かぬ(ひかぬ)強かさ(したたかさ)」の比喩として、「蚊の如き」という比喩が使われている箇所があって思わず笑ってしまった。「人間の肌からいかに逐い払われようとも、人の血は何よりの美味、しつこく咬みついてやむことを知らぬ。女神がその蚊のような強かさを彼の胸中に漲らせれば…」(下巻p183~184) 古代ギリシャ人もしつこい蚊には現代人以上に悩まされていたのだろうな。それにしてもメネラオスの奮戦ぶりに使う比喩かね…。

(4)アキレウスは、強いと言えば強いが、およそ誉められた人物ではない。まぁこういう例はよくあって、たとえば『三銃士』に始まり『鉄仮面』に終わる『ダルタニャン物語』の主人公たち(つまりダルタニャン&三銃士)も、かなりろくでなしである。

(5)この作品の中ではアキレウスは死なないし、トロイの木馬も出てこない。したがって、トロイエ(トロイア)は滅亡しない。ちょっと驚いた。ちなみに戦争のキッカケになった、いわゆる「パリスの審判」の場面はないし、ちらっと地味に言及されているだけ。このあたりの状況は、岩波少年文庫の『ホメーロスのイーリアス物語』では描写されていたように思う。そういう背景知識があるから、この岩波文庫版をすらすらと読めたのだが、いきなりこれはキツいかもしれない。

(6)訳はかなり良いと思う。どうせ文字で黙読するのだから、この現代語訳で元の韻文が散文になってしまっているのは文句を言うべきところではない。抑制の効いた訳注もよい。