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井上正幸『これまでになかったラグビー戦術の教科書』(カンゼン)

生で観戦する機会が途絶えているあいだに、こういう本を読んでみる。

率直に言って、出来のよい本とは言いがたい。

昨年のワールドカップで初めてラグビーを観るようになった新人ファンに向かない(※)のは本書の性質上しかたがないのだが、まず、全体の構成がなっていないというか、きちんと考えられていない。

(※ 恐らくそういう人には斎藤健仁『ラグビー「観戦力」が高まる』の方が優る。ただし2013年の本なので古さは感じる)

現代ラグビーの重要なキーワードである「ポッド」は、まず16頁にいきなり登場し、そのまま使われ続けるが、きちんとした説明は第2章「戦術の変遷」の「ポッドの誕生」(69頁)まで待たなければならない。ここを読めば、ポッドについてそれなりに分かるようになるのだけど、実はその後に、「シェイプ、ポッドとは何か」と題した第3章が来る(ところがポッドの説明は第2章の方が詳しいので、屋上屋を架す感が否めない…)。

他にも誤変換(「短調な攻撃」とか・笑)や脱字もめだつ。総じて、上述のような構成の点も含めて、総合的・俯瞰的に見る編集者が不在だったのかな、という印象。

と、ボロクソに貶しているようだけど…読んでいて実に面白かった!(笑)

2019年ワールドカップの日本代表の全試合と、いくつかの注目すべき試合を分析した第4章「2019年ワールドカップ分析」を読み返しつつ、試合の録画を見直したくなるし、それ以上に生観戦、それもゴール裏かスタンド最上方など背番号の良く見える席で観戦したくなる。最初の方に出てくるキック処理のシステムの話も、プレー経験のある人にとっては当たり前なのかもしれないけど、観戦オンリーのファンとしては、「なるほどこうなっているのかぁ」という感じ(内容的に本書のなかではやや孤立していて、ここにもやはり構成上の問題を感じるのだが)。

それなりにJ Sportsの解説とか聞いていて、「なんかシェイプとかポッドとかアンストラクチャーとかよく言われているよなぁ」くらいの観戦経験があれば、構成に難があっても何とか対応できるだろう。

それにしても、ラグビーというのは、こうして見るとものすごく頭を使う競技なのだなぁという印象。もちろんレベルが上がれば上がるほど、考えなくても(あるいは考えないほうが)正しく動けるようになっているのだろうけど。

というわけで、お勧めできないようでいて、実はマニアックなファンにはかなりお勧めである。

『源氏物語(一)桐壺~末摘花』(岩波文庫)

というわけで、読み始めた。

大学受験前の半年やっていたように、寝る前に少しずつ。この岩波文庫版はかなり注釈が手厚いので(見開きの左ページはすべて注釈)、古語辞典は手許にないのだが、何とかなっている(しかし実家から持ってこようという気になりつつあるが)。

まだ感想を云々するような段階ではないのだが、けっこう気に入ったのが光源氏の乳母の子という設定の「惟光」という登場人物。珍しく、名前で呼ばれる。源氏に比べればもちろん身分は下なので腹心の家来というか使いっ走りのような役回りなのだけど、乳兄弟ということで幼馴染なのか、主従関係といっても分け隔てのない感じで、女性に言い寄る画策など命じられて「まったくしょうがないなぁ、この人は」という感じで走り回りつつ、自分もちゃっかり相手の女性に仕える女房など口説いたりしている…。

さて、続けて第二巻に。全九巻だから先は長い。楽しみ。

長沼伸一郎『現代経済学の直観的方法』(講談社)

評価の分かれそうな本だが、一読した感想としては、これはかなり面白い。

そもそも表題が誤解を招く。「現代経済学」となっているし、ソフトカバーとはいえ装丁も黒基調でなかなか厳めしいのだが、それほどアカデミックな雰囲気はなく、かなり取っつきやすい「経済入門」である。また「現代」と銘打つほど直近の事象が中心になっているわけでもなく、古代中世にまで視野が広がっている。本来は、物理数学が専門の著者が、「科学者」があまりに経済に疎いことを憂えて書いたものだが、別に科学畑の人間でなくても経済に苦手意識がある人が読むにはふさわしい。ただし、はじめに著者も書いているように、「本を読むこと」に抵抗がないことが前提である。

で、アカデミックでない分、経済を少し囓った人にとっては(いや私のような者でさえ)「え、それは言い過ぎじゃない?」とか「え、○○は無視ですか?」と言いたくなるような部分がそこかしこに見られる。それどころか、たとえば、株式会社/市場については一言の言及もないし、リスクについての考え方もほぼ皆無である。そんな(現代)経済の論じ方がありうるのか、とも思うが、わりときちんと成立している。著者はそれらの点を理解していないのではなく、あえて枝葉として無視する方が堅牢な構成になると計算しているのだろう。「木を見て森を見ず」という言葉があるが、その反対に、森さえも見ず、森を支える土壌や空気などを論じている印象か。ジャレド・ダイヤモンド『銃・病原菌・鉄』『文明崩壊』あたりを面白いと思った人には向いているような気がする。

新しいところでは仮想通貨/ブロックチェーンに関する章は、非常に分かりやすい。以前読んだ岡嶋裕史『ブロックチェーン』(講談社ブルーバックス)も優れていたが、むしろ本書の該当部分を読んだ方が手っ取り早い気がする。ビットコインを金本位制と絡めて語るところは秀逸。だから「マイナー」なのね。

ただし、「解決策」を探る最終章は薄っぺらという印象。さすがにそこまでは荷が重いか。

というわけで、トンデモ本と見なす人もいるだろうなとは思いつつ、これはこれで十分に良書だと思った次第。アダム・スミス、ケインズ、マルクスあたりはやっぱり読んでおきたいなぁと思わせるだけでも意味はあった。

 

広瀬正『ツィス』(集英社文庫、kindle版)

何となくまとめてkindleで購入してしまった広瀬正作品。『マイナス・ゼロ』に続いてこれを読んでみる。

一部の人にある高さ(C#、ツィス)の音が耳鳴りのように聞えはじめ、原因不明のまま、音量がだんだん大きくなって聞える人の数も増え、やがて耐え難い音量になり…という、一種の自然災害パニックもの。

「治安体制を強化するための権力者の陰謀」論を唱える人々が出てくるといったあたりは、昨今の新型コロナウイルスでも見られる現象で、なかなか興味深い。

ただ作品としては、最後にオチをつけたようでいて、さらに混ぜっ返す形で終っているので、結局何だったのか謎は残るまま。作者の意図としてそうしたかったのかもしれないが、やや消化不良感が強い。オススメかと言われると微妙である。

 

佐藤義之『「心の哲学」批判序説』(講談社選書メチエ)

「心」(「現象的意識」とも)が物理的な世界に影響を与えることを否定する現代の「心の哲学」に対して、「心」の存在意義の再確認を試みる著作。

自然淘汰による「進化」に基づく「心」の存在意義の主張には、ある程度の説得力を感じる。現象学的な立場からの「意識」の捉え方は、著者が多く援用するメルロ=ポンティの著作に、私自身も卒業論文で大いにお世話になったこともあって、懐かしく馴染みやすい論法。

とはいえ、この本自体では「心」から物理的世界への働きかけの可能性自体については論証できていないのは著者も認めているとおり。というより、「物理世界は完結し、心の働きかけを許さない」という物理世界の因果的閉鎖性テーゼにおいて、そもそも「因果」という概念自体が「心」によって導入されたものではないかという、さらに根本的な(いや、カントに戻るわけだから先祖返り的ではあるのだが)問い直しが必要なのではないか、という気がする。その意味で「哲学者、もっと強気で行けよ!」と思ってしまうけど、そういうちゃぶ台返しみたいなことはやりたくなかったのかな…。

 

広瀬正『マイナス・ゼロ』(集英社文庫、Kindle版)

どこかの書評サイトで知って、ふと興味を惹かれて読んでみた。

時間旅行(タイムマシン)もののSF。

面白くはあるのだけど、時間旅行ものというのは(最近のは知らないけど)、わりと素朴な時間観念(「時間は過去から現在、現在から未来に向けて一直線に流れている」)に基づいて書かれているなぁという印象。この作品については、いろいろ伏線を回収しようとして、さすがにそれは無理があると思われる設定になってしまっている。まぁその剛腕ぶりが面白くもあるのだけど。

ひとまず、このジャンルの傑作『夏への扉』を読み直したくなった。

 

三品輝起『すべての雑貨』(夏葉社)

西荻窪の雑貨店主が書いたエッセイ集。

すべてのものが雑貨へと鞍替えしつつある、という把握が一貫したテーマ。確かに、「雑貨屋」と称する店に衣類や文房具、食器や調理器具や工具類、あまり大きくなければエレクトロニクス製品、あるいはCDや書籍が並んでいることを不思議に感じる人はいない。恐らくそれは、「もの」をカテゴリーで分類するのではなく、スタイル(著者は「系」という言葉で表現しているように思える)のなかに位置付けるという態度の変化によるものなのだろう。

途中、こんな風に書かれたら、今なら当然この歌詞で検索するよなぁ、と誘ってくる叙述がある(ところで著者はその後検索して突き止めたのだろうか)。注文どおり(?)調べてみたら、簡単に曲名も誰が歌っているかも分かるのだけど、ある意味、こういうのも情報の雑貨化なのかもしれない。

Amazonでは扱いがないようなので、書影は版元のサイトより。

ナイジェル・ウォーバートン『「表現の自由」入門』(森村進・森村たまき訳、岩波書店)

ブックカバー・チャレンジで友人が紹介していて読もうと思った本、第二弾。第三弾の『ヒューマン・ファクター』と順序が入れ替わったのは、原書で読み直していたため。

「表現の自由」(あるいは言論の自由、原語ではfree speech)の擁護/制限について、古典的ではあるが今なお有効な出発点としてJ・S・ミル『自由論』の危害原理の紹介から入り、宗教的な文脈での侮辱や中傷、ヘイトスピーチ、ポルノの検閲、芸術作品における表現の自由、著作権の問題、インターネット時代の問題といった感じで、一通り、表現の自由をめぐる論点が網羅されている。このへんを読むと、昨年の愛知トリエンナーレにおける一部作品に対する攻撃も、こうした議論における一つのエピソードとして(それ自体はきわめて底の浅いものであったとしても)俯瞰的に位置付けられるように思う。

ただし、「原書で読み直した」ことから察していただけるように、翻訳の出来はかなり酷い。といっても、「あ~、こういう感じだったのだろうなぁ」と原文がありありと思い浮かぶので、つまり誤訳ではない。この分野の専門家が、正しい原文理解のもとに、何ら工夫することなく「英文和訳」したという印象。

原書を読んでみると、この紙数にこれだけの内容を盛り込むべく、きわめて無駄のない精緻な、したがって込み入った英文になっていることが分かる。確かにこれを翻訳するのはそれなりの力量が必要だ。これ、内容の現代性という点からしても、大学入試の英文読解とかで使うと、かなりレベルの高い問題ができるのではなかろうか。

しかし、一般向けの翻訳書である以上、せめてもう少し工夫してほしかったなぁ。

なお、ナイジェル・ウォーバートンという名前に「おお、ウェールズの人か!」と反応するのはラグビーファンだけ(ちなみにイングランド出身のようです)。

 

グレアム・グリーン『ヒューマン・ファクター』(加賀山卓郎・訳、ハヤカワepi文庫)

ブックカバー・チャレンジで友人が紹介していて読もうと思った本、第三弾。第二弾はすでに読んだのだけど、原書で読み直しているので記録は後回しに。

グレアム・グリーンはこれまで読んだことがなく、映画『第三の男』で名前を知っているくらい。

友人の紹介では内容がほとんど分からず、スパイもののようだというくらいしか予備知識が無かったのだが、なるほど、これはなかなかすごい作品である。スパイ小説なのだが、銃声も死者も最小限。解読すべき暗号もない。なるほど、看板に偽りなく「ヒューマン・ファクター」だけ、なのか。

すごい作品なのだが、新型コロナ禍中のいま読むのはあまりお勧めできない(別にウイルスや病気とは何の関係もないのだが)。しかしその理由についてこれ以上書くとネタバレになるし、謎解きがメインの作品ではないとはいえ、これはネタバレなしで読む方がよかろう。もっとも私自身は再読するような予感があるから、あまり関係ないかもしれないが。

 

ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』(池田香代子・訳、みすず書房)

しばらく盛り上がっていた「ブックカバーチャレンジ」。私自身はふだんから読書記録を晒していることもあるし、mixiの頃から「バトンは受けない、回さない」を原則としているので受けなかったのだが、友人知人たちの紹介する本を見ていて、「ああ、これは読まなきゃ」と思ったのは、申し訳ないけどごくわずかしかない。

その1冊が、これ。

いや、あまりにも有名な本なので、意外に思われるかもしれないが、読んでいなかったのだ。新版の訳者である池田香代子さんは『飛ぶ教室』の訳も良かったので、こちらを購入。

たいへん良い本だった。

よく知られたアウシュビッツに代表される強制収容所での体験を、精神分析学者である著者が綴ったものということで、もっと読み進めるのが辛くなるような陰惨な内容なのかと思っていたが、そうでもなかった。平明な新訳の効果もあるのかもしれないが、著者自身がわりとユーモアに溢れている人のようでもある。

内容は、難解な用語や理論はまったく出てこないのだが、きわめて哲学的。我々が生きる意味を問うのではなく、生きることが投げかけてくる問いに我々が答えを出すのだ、と。ここでの「生きること」を宗教的に表現すれば「神」になるわけで、極限状況において、哲学と宗教と心理学(精神分析)は一体化するのだなぁと思う。

『なぜ私だけが苦しむのか』と共通する部分も多いが、こちらの方が強制収容所という極限状況を前提としている分だけ、却って一般化されている(宗教寄りではなく哲学寄り)という印象。

そして、この本を読んで、ふと「ああ、またマラソンを走りたいなぁ」と思ってしまったのは、まぁ分かる人には分かってもらえるだろう…。