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鈴木道彦『プルーストを読む-『失われた時を求めて』の世界』(集英社新書)

岩波文庫の新訳は14巻完結予定で、すでに刊行された12巻まで読み、ラストもだいたい噂(?)には聞いているので、そろそろネタバレを恐れる必要もあるまいと思い、次の13巻が出るまでの繋ぎとして、これを読んでみた。

それでも、「え、あの人そうなっちゃうの?」というネタバレがいくつかあった……まぁそもそもストーリー展開にワクワクしながら読むというような小説でもないのだし、そもそも本書自体が、『失時求』に恐れをなして二の足を踏んでいる人のためのガイドブックを意図している部分もあると思うのだが、そうしたガイド無しで読み進めてきた身としては、ちょっと早まったかなという感じ。

とはいえ、『失時求』のどういうところを楽しめばいいかを的確にまとめているという点ではよくできた本。むしろ、作品自体を読む気はないけど、どんな作品なのかは知っておきたい、という人にお勧めしたい。

その一方で、これを読んだことで、また作品そのものを最初から読み返したい気になってしまったのも事実。危険である。

 

 

ブライアン・W・オールディス(訳・伊藤典夫)『地球の長い午後』(ハヤカワ文庫SF)

以前からタイトルだけは知っていたSFの古典(だと思う)。何かの拍子にふと思い出し、読んでみた。

地球の自転が止まり、太陽に照らされ続ける半球では植物が進化・繁茂して地上の支配者となり、反対の半球は闇と寒さに覆われた死の世界になる、という設定。ほとんどの動物が絶滅するか植物の支配下で細々と生きるなかで、大幅に退化し、わずかに生き残った人間の物語。

奇想天外、荒唐無稽。まさに空想科学小説というか、奔放な想像力/創造力の産物という感じ。『スターウォーズ』的に奇抜な生き物もふんだんに出てくる。

ただ残念ながら、それほど面白いとは思わなかった。私がSFとして最も楽しめるのは、誰かが小松左京のいくつかの作品について言っていた、「一つだけ大きな、ものすごく大きな嘘をつき、その設定のもとで、それ以外の点については徹底的にリアルである」というタイプなのだと思う。

「これ、収拾つかないよな、三部作とかで続きがあるのかな?」と思っていたら、バタバタと一気に終った。読後ちょっと情報を探ったら、元々は5編の短編集だったものを1本の作品としてまとめたらしい。展開の無理矢理感は、そのせいかもしれない。

 

※ ネタバレになってしまうのだけど、これまた『スターウォーズ』に喩えれば、先輩ジェダイたちが「我々の時代は終った、後は君たちに任せる」と遠方に去るのだけど、その遠方の地である秘密に気づき、帰還の旅に出発する。残されたルークたちが生命の危機にさらされながら奮闘しているのだけど、先輩ジェダイたちは全然戻ってこないので、観客である我々はやきもき。ついに戻ってきたと思ったら、どちらかと言えば敵役だった奴の話に納得して、そいつと一緒に「じゃ!」とまた遠方に去ってしまう。ルークたちが一緒に行かないというのは自主的な判断なのだけど、観客としては「え~っ!」という感じ(笑)

 

シッダールタ・ムカジー『病の皇帝「がん」に挑む 人類4000年の苦闘』(田中文・訳、早川書房)kindle版

これも8月の早川書房kindle半額セールで購入。

たっぷりとしたボリュームと内容の「しんどさ」ゆえに、読了に時間がかかったが、たまたま本庶氏のノーベル医学・生理学賞受賞とタイミングが合ったこともあり、興味深く読んだ。

こういう本を読むと、いずれ自分ががんになった場合でも、いわゆる代替療法を試す気にはならないだろうなぁ、と思う。これだけ複雑ながんの仕組みが、先人の努力と苦労の甲斐あって、ここまで解明されているのだから、それに「乗っからない」手はないよな、と。

しかしその一方で、この本を読んでいると、手術にせよ化学療法にせよ放射線にせよ、非人道的とさえ言いたくなるような治療がどれほど行われてきたかというのも思い知らされるので、代替療法にすがってしまう人の気持ちも分からなくはないのだよね…。

がんの克服に向けた辛い道のり(まだ終っていない)が本書のメインなのだけど、がんが死亡原因の上位に進出してきたのはそれほど昔のことではない(昔は、がんになる以前に、今では治しやすい病気で若くして死んでしまっていたから)とか、決定的な治療法が発見されるよりも先に死亡率が大きく低下した疾病はいくつもある、みたいな話も面白い。

※ そして本筋とは関係ないけど、ところどころに「正常細胞はみな同じだが、悪性細胞が不幸にも悪性になるまでには、それぞれ独自の経緯を経ているのだ」みたいな遊びがあるのが良い。これは『アンナ・カレーニナ』だけど、「確かこれ、『ノルウェイの森』にあったのでは」という一節も見つけた。

椎名誠『さらば国分寺書店のオババ』(クリーク・アンド・リバー社)kindle版

昔(高校生の頃?)読んだのは、これではなくてたぶん『哀愁の街に霧が降るのだ』の方だと思うのだけど、何となくこれを買ってしまった。

自分も昔はこういうのを面白いと思って読んだのだなぁ、という印象。巻末の目黒考二との対談で「昭和軽薄体」として言及されている文体も、冗舌で煩いだけのように思えるし、自由奔放な内容も、いま読むと暴論というだけで、もちろん新鮮さもないし特に面白くもない。もっとも目黒との対談のなかでも「思ったほどひどくないよ」「当時はオレも面白かったんだから、それがこんなに印象が違うとは思わなかった」と言われているので、まぁ本人含め親しい間柄でもそういうものなのだろう。

出版は1979年か。バブルと呼ぶには早いけど、「昔はこういうのが受けたんだな、でも…」という意味では、バブル感の色濃い作品である。

オリヴァー・サックス『音楽嗜好症(ミュージコフィリア)』 (ハヤカワ文庫NF) Kindle版

8月に早川がkindleの割引きセールをやっていたときに何冊か買ったうちの1冊。大変興味深く「読ませる」のに、ずいぶん時間がかかったのは、それだけ内容が濃いから。

一貫して感じるのは人間の脳、そして音楽がいかに興味深いものかという点なのだけど、それ以外にも、たとえば「…ということは、こういう習慣をつければオレの唄三線ももっと上手くなるんじゃないの?」とか、「車椅子のおばあちゃんがカチャーシーだけは踊れるってのはそういうことだったのか」とか、自分にとって身近なジャンルの音楽に関してもいろいろ発見がある(もちろん勘違い、拡大解釈である可能性はある)。あと、「ラヴェルは『ボレロ』を書いたとき、認知症にかかり始めていたのではないかと思える」みたいな話が興味を惹かれる。

「そしてもちろん、音楽の連想について最も優れた文学的分析を行ったのはプルーストだ」という指摘が出てくるのも偶然のタイミングとはいえ嬉しい。

まぁ自分のように言語能力にリソースを偏らせている人間は音楽で才能を発揮するのは厳しいんだろうな、という諦めも感じるけど(笑)

音楽に多少なりとも興味のある人にはお勧めです。紹介されているさまざまな音楽(クラシックが多い)を聴いてみたくなってしまうところが難点といえば難点。Spotifyの無料アカウントを作ってしまった…。

kindle版の問題は、メニューの階層が「第1部」「第2部」……という単位でしかないこと。冒頭の目次からは各章(全29章)にリンクが貼られているのだけど。

 

プルースト『失われた時を求めて(12)』(吉川一義訳、岩波文庫)

新訳の最新巻が出るのを待ちかねて書店に予約し、5月に買ったのだけど、ようやく読む(笑)

恋や記憶や忘却を中心に、人間の心理の精細な地図を狭く深く突き詰めようとしているという印象。だからたとえば愛する人を失ったときにこの作品を思い起こすと、これから自分の心はこんなふうな過程をたどっていくのだろうなぁという、ちょっと引いた視点からの見取り図が得られて、少し辛さが緩和されるのではないかという気がする。まぁこの作品に限らず、小説を読むことの効果(良かれ悪しかれ)の大きな部分はそういう想像力が養われることなのだろうけど。

それにしても、この巻で過剰なほど綿密に描かれている心の動きだけでも、優に1つの長編小説が構築できるくらいの濃密さ(そもそもこの巻だけでも600ページあるのだから当然なのだけど)。実に的確で「さもありなん」と膝を打つ描写も多々出てくるので、優れた作品ではあるのは確かだけど、「ぜひ読むといいよ」と人に勧める気には決してなれない…。

この作品を読んでいると、そこはかとなく「無敵感」が味わえる。これを読み通しているオレに読めない小説はない、という読者としての無敵感と、「ここはもっとこうすればいいのに」という改善や「こういう部分は別のあの作品のほうが優れている」という比較の可能性を全く与えないような、唯一無二の作品としての無敵感。「いや、いくら名作だからって、こんなの書こうとする奴は他にいないよ」と言う気がする。

残りはあと2巻。早く続きが読みたいのは事実。

庄野潤三『夕べの雲』(講談社学芸文庫、kindle版)

8月の終わりに読了。

吹きっさらしの丘の上の一軒家に引っ越してきた夫婦+子ども3人の一家の淡々とした日常。緑豊かな周囲の環境が確実に失われていく予感(一部はすでに現実)はあっても、特にそれに対する思いを綴ることはなく、ただ、変化の訪れだけが予告される。

恋愛、冒険、死、挫折、葛藤、不和、陰謀……そういう何らかのドラマになりそうな要素はほとんど何一つない。ただ、数年にわたる叙述のなかで、子どもたちは確実に成長していく。そういう作品である。まさに冒頭で萩の木を見て「こんなに大きくなったのか」と主人公が嘆声を発するように。

むろんこの作品も現代にあっては「どこがいいのか分からない」という人がほとんどだろう。というか、こんな作品を読む人じたいがほとんどいないのではないか。

末尾の「著者から読者へ」というあとがきによれば、著者が家族と住んでいた多摩丘陵(生田)が舞台であるようで、設定としては私の子供時代よりしばらく前だろうが、似たような環境は私の周囲にあった。今はもうない。

作品の評価には関係ないが、主人公である大浦が戦時中に父母に書いた手紙のなかに「私はラグビーをやります。すこぶる愉快であります」という一節があったり、何年か前に話題になった『BORN TO RUN~走るために生まれた』で紹介されていたタマフマラ族の話が出てくるのも、ごく個人的にではあるが面白かった。

木村紅美『雪子さんの足音』(講談社)

著者は個人的な知人でもあり、応援の意味も込めて書きたい。

…のだが、読了して「これは売れないよな〜」と思う。これが芥川賞候補作に選ばれるというところに、むしろ芥川賞の良心を感じるくらい。

仮にこの作品が芥川賞を獲っていたならば多くの人の目に触れるのだろうけど、Amazonには「どこがいいのかわからない」という評価が並びそうな気がする。

でも結局のところ、「どこがいいのかわからない」のが人生なのだろうな、と思う。

基本的には青春の思い出話。でも、甘美な要素はほとんど一つもない。「あんなふうにするべきではなかった」という後悔はあっても、では別のようにしていればもっと素敵な何かが起きていたのかというと、そうでもない。「ああしなくてよかった」という納得はあっても、そのおかげで誰かが幸福になれたのかというと、そうでもない。

何年か前に読んだ『海炭市叙景』をふと思い出した。あと、だいぶ前に村上春樹『若い読者のための短編小説案内』で取り上げられている作品を片っ端から読んだのだけど(一つも読んだことがなかった)、そのあたりの一連の作品をふと思い出した。たまたま庄野潤三の『夕べの雲』をkindleで購入したので、次はそれを読もうかな。

※ つい「これは売れない」と書いてしまったが、何度か増刷がかかっているらしい。映画にもなると聞いた。良いことだと思う。

※※ 細かなことだけど、五日市街道とJR高円寺駅を結ぶ道を「坂道」と書くのが良い。「坂なんてあったっけ」と思うくらい緩やかなのだけど、疲れた足で歩いたことのある身にとっては、あれは確かに坂道なのだ。

 

J. K. Rowling, Harry Potter and the Deathly Hallows (Kindle version)

というわけで、完結。

これまでの巻では基本的に学校での場面がほとんどで、さすがに校内の情景描写に飽きてくるし、クィディッチや授業、テストにちょっとウンザリしていた。まぁ、同じように日常のかなりの部分を学校で暮らしている少年少女向けと考えれば、それもしかたがないのかな、という印象。

一転、この最終巻では8割方、学校外(イギリス各地)を転々とする展開で、その意味ではこれまでとはガラリと雰囲気が変わるのだけど、逆にそのせいで、学校に戻ってきたときの「戻ってきた」感が高まって、上手い構成だと思う。状況はどんどん悪化していくのに、学校に戻って仲間と再会することで高揚する感じ。クライマックスを前にクィディッチの最初のメンバーが揃うところも泣かせる(まぁせっかくだから出してあげた、程度の印象ではあるが)。その意味では、Viktor Krumも最強Broomstick部隊を率いて駆けつけてほしかった。

物語の収束は、ちょっと無理矢理の感じもあるけど、まぁこんなものだな(笑)

映画も借りてこようかと考え中。

サイモン・シン『フェルマーの最終定理』(青木薫訳、新潮文庫)

どなたかがTwitterで紹介していたので読んでみた。この文庫版が2006年、単行本が2000年出版とそれなりに古いのに、数学分野でAmazonのベストセラー1位になっているのも頷ける傑作。

私自身は下手の横好きというか、数学関係の本はときどき手を出しているので、たとえば本書の「補遺」に収録されている程度の話は目で追うだけで理解できるのだけど、それはつまり、私にでも分かるその程度の証明でさえ本文からは追い出しているという意味なので、実際のところ、目にする数式は、本題であるフェルマーの最終定理の式の他いくつか散在しているだけで、しかももちろん、それらの式の操作を理解することは読者には求められていない。

にもかかわらず、証明に至る戦略というか、どういうアプローチによって苦心を重ねたか、何が成功のきっかけをもたらしたかということは、素晴らしくよく伝わってくる。

いわば、世界の最高峰に登頂する登山家たちを上空からのテレビ中継で眺めているという印象。もちろん自分自身では登頂できるわけはないし、彼らがどのように身体を使っているかという細部はまったく理解できないのだけど、どういうルートを試み、他のスポーツ用に開発されたアイテムが使えるのではないかと試し、また行き詰まり、別のルートに切り替えてアプローチしているかはよく分かる。つまり、中継チームの腕がいいのである。むろん、そのような登山の実況中継など至難の業だろうという点も含めて。

実際には読んでもらわないと説明は難しいのだが、やはり面白いのは「橋を架ける」話のあたりかなぁ。

図書館で借りて読んだのだけど、これは家人も読みそうだし、買うことにしようかな。