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葉室麟『影ぞ恋しき』(文春e-book、kindle版)

三月中にとっくに読み終わっていたのだが、時節柄いろいろ忙しく、アップが遅れた。

蔵人・咲弥夫妻もの第三弾にして、最後の作品。

先にも書いたように、この作品は新聞連載で読んだのだが、改めて読み返してみると、前二作のエピソードへの言及がずいぶんある。連載中には、前二作を読んでいないことをさほどハンデにも感じずに楽しめていたのだけど、こうして読むと、これにて完結という趣がある。

もちろんそれは、この作品の連載を終えて作者が急逝してしまったのを知っているゆえの先入観からかもしれない。作者としてはまだこの流れで後日譚を書きたかったのかもしれず。

葉室麟『花や散るらん』(文春文庫、kindle版)

蔵人・咲弥夫妻もの、二作め。

いわゆる「忠臣蔵」、つまり「松の廊下」刃傷沙汰から赤穂浪士討ち入りに至る事件をバックに、本編の主人公たちの活躍がサイドストーリーとして進行するような構成。したがって、浅野内匠頭、吉良上野介、大石内蔵助といった著名な人物も登場し、興味深い描かれ方をしている。

この作品もタイトルは和歌から取られたもので、あれ、「久方の…」だったら「花ぞ散るらん」だよなぁと思っていたら、別の歌だった(謡曲「熊野」に出てくるということは、元は「平家物語」にも出てくる歌なのかな?)

引き続き、新聞連載で読んだ第三作へ。

 

 

葉室麟『いのちなりけり』(文春文庫、kindle版)

珍しく剣豪小説など読んでみる。

東日本大震災のときもそうだったのだが、時事翻訳を中心にやっていると、このようなご時世では何かにつけて関連の記事ばかり翻訳しており、もちろん自分でもいろいろ情報を収集するので、「そういう話」ばかり目にすることになる。いいかげんウンザリしてくるというか、けっこう真面目な話、精神的に負担がかかってくる。

そういうときには、身体を動かすのと(これは自転車通勤の頻度を高めているので足りているとして)、ストーリー性の高い、中程度の長さの小説を読むのがよい。震災のときは『初秋』を皮切りにスペンサー・シリーズに救われた。先般読んだ『イリアス』『オデュッセイア』も、まぁその部類の読書に入れてもいいのだけど、じゃっかん長いし、教養主義すぎる(笑)

葉室麟は、何年か前の新聞連載小説をわりと面白く読んだ。と思ったらまもなく急逝してしまい、愛読者でもないのに残念に思ったものだ。連載されていた『影ぞ恋しき』は、雨宮蔵人・咲弥夫妻もの三部作の三つめ、ということなので、せっかくだから最初の本作から読む。

時代小説、剣豪小説は、吉川英治『宮本武蔵』『鳴門秘帖』や、子ども向けだが『鞍馬天狗ー角兵衛獅子の巻』、途中までだが中里介山『大菩薩峠』あたりを読んだことがあるのだけど、最近では上述の『影ぞ恋しき』以来だし、中編を一気に読み通すのは久しぶり。

で、翻訳小説が苦手な人とは逆に「わ~、人の名前が漢字ばっかりで辛い~」「なんで途中で名前が変わるの~」と戸惑うこと頻り(『大菩薩峠』とかは牢人・市井の人物ばかりなのでそうでもないのだが、大名とか侍はけっこう名前が変わるのだ)。

とはいえ、愉快に読める。表題の『いのちなりけり』は古今集の和歌の一節から来ていて、教養ある美女(咲弥)が、夫となった無骨な武士(雨宮蔵人)に対して、「あなたの心を示す、好きな和歌を教えてくれるまでは寝所は共にしない」と問うが、蔵人は「無学なもので…」と俯いてしまう。で、紆余曲折あってその後長くに渡って夫婦は離ればなれになるのだが、そのあいだ蔵人は健気に和歌を勉強して、自分の心に合う歌を探す、というお話。もちろん剣豪小説ゆえ、その間、斬り合いや陰謀はいろいろあるのだけど。

既存の有名作品と同じ時代を舞台にしているので、水戸黄門・助さん・格さん(と後に呼ばれるようになった2人)も出てくるし(ただし、本作での水戸光圀は好悪の別れる描写である)、吉良上野介も出てくる(彼は次作でも重要な登場人物になるようだ)。

当然ながら、さっそく次作へ。

ホメロス『オデュッセイア(下)』(松平千秋・訳、岩波文庫)

波瀾万丈の冒険を潜り抜けて、故郷のイタケに帰還してめでたしめでたし、という話のように記憶していたが、そうではなかった。帰還して、その後の話がけっこう長いのだな。

ただ正直なところ、その部分はさほど面白いとは思えない。何というか、女神の助力による部分が大きすぎるような気がして、そりゃまぁうまく行くよなぁとは思うけど、ご都合主義に過ぎるのでは、という印象。

これもやはり『ホメーロスのオデュッセイア物語』を子どもの頃に読んでいるのだが、『イリアス』に比べて読み返した記憶が薄い。やはり『イリアス』の方が面白かったのかな。

さて『オデュッセイア』を読んだところで、この作品についての熱心な分析があった『啓蒙の弁証法』を読み返すと、また違った印象が得られるのだろうか…。

 

 

ホメロス『オデュッセイア(上)』(松平千秋・訳、岩波文庫)

少し寄り道したものの、『イリアス』に続いて、『オデュッセイア』へ。

言わずと知れた、トロイア戦争の英雄の一人であるオデュッセウスが苦難の長旅の末に故郷に帰着する物語。困難な長旅や探求をodysseyと称するのは、ここから来ている。2001:Space Odyssey(邦題『2001年宇宙の旅』)みたいに。これもやはり、たぶん小学生の頃に子ども向けのバージョンで読んでいるので、あまりハードルは高くない。

で、オデュッセウスが主人公のはずなのだが、100ページ以上読んでも本人は登場しない。そして知略並ぶ者なき英雄であるはずなのに、オデュッセウスくん、けっこうお馬鹿な失敗もやっている(笑)

それにしても、こういう時代的にも内容的にも浮き世離れした作品を読むのは楽しいなぁ。以前にも触れたように、3.11のときにはロバート・パーカー『初秋』に救われたものだが、今回もやはり、こうした作品に逃避しているのかもしれない。

引き続き、下巻へ。しかしもう、覚えのある冒険はだいたい済んでしまったような気がするのだけど、あと何だっけ?

 

ホメロス『イリアス(下)』(松平千秋・訳、岩波文庫)

怒濤の勢いで読了。

以下、やくたいもない感想を並べる。ネタバレもあるけど、これだけ有名な作品なんだからいいよね。

(1)すべては神々が悪い。読みながら、「あ~、もうよけいなことするな~!」と叫びたくなることがしばしば。古代ギリシャの人々というのは、ある種の無常観というか、諦念を帯びた世界観を持っていたのではないだろうか。バカどもが偉そうな顔をして操っている世界なんだから、我々の運命が不条理でもしかたがないよ、みたいな。まぁ実際、ままならない自然現象に翻弄される程度も今よりはるかに大きかった時代なのだから、そういう世界観になるのが普通か。

(2)愛と美の女神アフロディテが戦いにおいて弱いのは無理もない。しかし軍神アレス弱すぎ。神格の低さゆえなのか。

(3)上巻でも感じたのだけど、比喩が面白い。特に、「いっかな退かぬ(ひかぬ)強かさ(したたかさ)」の比喩として、「蚊の如き」という比喩が使われている箇所があって思わず笑ってしまった。「人間の肌からいかに逐い払われようとも、人の血は何よりの美味、しつこく咬みついてやむことを知らぬ。女神がその蚊のような強かさを彼の胸中に漲らせれば…」(下巻p183~184) 古代ギリシャ人もしつこい蚊には現代人以上に悩まされていたのだろうな。それにしてもメネラオスの奮戦ぶりに使う比喩かね…。

(4)アキレウスは、強いと言えば強いが、およそ誉められた人物ではない。まぁこういう例はよくあって、たとえば『三銃士』に始まり『鉄仮面』に終わる『ダルタニャン物語』の主人公たち(つまりダルタニャン&三銃士)も、かなりろくでなしである。

(5)この作品の中ではアキレウスは死なないし、トロイの木馬も出てこない。したがって、トロイエ(トロイア)は滅亡しない。ちょっと驚いた。ちなみに戦争のキッカケになった、いわゆる「パリスの審判」の場面はないし、ちらっと地味に言及されているだけ。このあたりの状況は、岩波少年文庫の『ホメーロスのイーリアス物語』では描写されていたように思う。そういう背景知識があるから、この岩波文庫版をすらすらと読めたのだが、いきなりこれはキツいかもしれない。

(6)訳はかなり良いと思う。どうせ文字で黙読するのだから、この現代語訳で元の韻文が散文になってしまっているのは文句を言うべきところではない。抑制の効いた訳注もよい。

 

ホメロス『イリアス(上)』(松平千秋・訳、岩波文庫)

先日読んだ『啓蒙の弁証法』が刺激になって、よし『オデュッセイア』を読もうと思ったのだが、それにはまずこれを読んでおかないと、と『イリアス』を購入。

いや~面白い。たぶん小学校高学年くらいで子ども向けの『ホメーロスのイーリアス物語』を読んでいたので、だいたいの展開は覚えているというのが大きいのだが、約450ページを2日と少しで読了。

『啓蒙の弁証法』で延々と『オデュッセイア』について論じられていたように、おそらくこの『イリアス』も西洋の思想的源流として分析的(思想の考古学的)に読める要素がたくさんあるのだろうけど、結局、そういう難しい話は抜きにして、娯楽作品として楽しんでしまっている。

かなりの部分は合戦の描写だが、口承文学ゆえに決まり文句、定型表現が多い。戦いで倒された者について「身に着けた物の具(武具)がカラカラと鳴った」「闇が〇〇の目を覆った」「四肢は萎えた」などが頻出する。日本でいえば「枕詞」の類も多い。「脛当て良きアカイア勢」とか「馬馴らすトロイエ勢」の類。こういうのをクドいと感じるか、そこにリズムを見出すかによって、この作品を楽しめるかどうかが分かれるかもしれない。

それにしても、この世界における神々と人間の距離の近さには改めてびっくりする。トールキンの作品世界でのマイア、エルフ、ノルドールの力関係は、これに近いものがあるのかもしれない。

そして、こういうのを読むにつけ、やはり自国の軍記物の白眉『平家物語』も原文で読んでみたいなぁという気持ちが高まってくる(もっとも下巻を読み終わったらもちろん『オデュッセイア』に進みたいし、自国の古典では『源氏物語』が一大目標ではあるのだけど)。

上述の子ども向け版の出来がけっこう良かったのか、原典(といっても翻訳だが)で読んでもそれほど違和感はない。ただ、冒頭の「凡例」で訳者が、「ホメロスの言語はイオニア方言系が主体となっているので、多くの読者には耳慣れぬ語形が少なくなかろうと思う。それらの語については、少なくとも初出の場合には、一般に知られているアッティカ方言系を括弧内に示した」と断っているように、固有名詞で戸惑うところもある。その最たる例を挙げれば「トロイア」ではなく「トロイエ」である、といった具合に。まぁそれも慣れる。

人名が、「〇〇の子」と父称で呼ばれていることも多いので、これも慣れが必要。子ども向けの方では、「アトレウスの子」はアガメムノン、「ペレウスの子」はアキレウス、「テディウスの子」はディオメデス、といった具合に初出を除けば統一を図っていたような覚えがある。

あと、子ども向けではかなり控えめにしてあったような気がするのだが、かなりスプラッタというか、えぐい表現も多い。「脳漿はすべて兜のなかに飛び散った」とか、「血塗れになった二つの眼球が足下の砂中に落ち」とか。このへんの表現については、古代のギリシャ人は人体解剖とかもよくやっていたのだろうなぁと思わせる。

ちなみに、時代はまだ青銅器時代。鉄は存在するのだが、金と並んで贈り物にカウントされるくらいの貴重品という位置づけ。そんな時代からこんな戦争をやっているのだから、人類が滅亡しなかったのが不思議である(笑)