読んだ本」カテゴリーアーカイブ

『教科書名短編・科学随筆集』(中公文庫)

たぶん中学の国語の教科書だったと思うのだが、桜の花や松の葉が風もないのに音もなく散る情景から書き起こす随筆を読んだ記憶があって、最終的に何を言わんとする文章だったかも、表題も、著者の名前すらも覚えていない。

先日、まさに松の葉が音もなく散り落ちる様子を目の当たりにして、そんな文章があったことを思い出し、また読みたいと思ったのだが、そんなわけで探し当てられない。一つ年上で同じ中学に通っていた姉に聞いてみたのだが(そもそも姉が気に入っていた文章だったように思う)、確かにそういう作品があったことは覚えているが、やはり著者の名は覚えていないという。今も電話をする仲だという当時の国語教師にも問い合わせてくれたのだが、やはり分からない。

私は、詩人・歌人の筆になるものだと記憶していたのだが(すぐに浮かんだ名前は大岡信)、姉は、ひょっとしたら科学者による随筆だったかもしれない、と言う。

という経緯で読んでみたのが、この本(前置きが長い)。

残念ながら探していた作品はこの中には見当たらなかった。とはいえ、科学者による随筆といえばまずこの人、と名の挙がる寺田寅彦に始まり、中谷宇吉郎、湯川秀樹、岡潔以下、錚々たる顔ぶれによる名作揃い。特に中谷宇吉郎の数篇が良かったように思う。中学校の国語の教科書に収録されたものなので、どれも難解というほどではないが、しかし、このあたりをさらさらと読める中学生はなかなかいないのではないか。

 

※ そして巻末の既刊紹介の広告ページを見ていて、ふと、そうか、ドナルド・キーンの文章という可能性もあるかな、などと思いついてしまった。

 

『源氏物語(六)柏木~幻』(岩波文庫)

それにしても紫の上は、幼少時に拉致(?)されて以降、基本的には、いわば御簾の内だけで生活しているわけで、たとえば海を見ることなく死んでいったのだろう。対照的なのは玉鬘で、はるばる九州にまで渡り、船旅も経験したであろうし、おそらくはさまざまな見聞を重ねた上で帝に嫁いでいる。源氏自身も、不遇の時期がなければろくに海など見ることもなかったはずだ。現代においては、一般論としては、社会的に上位の人間の方が国外に足を運ぶなど見聞を広める機会に恵まれているところ、この時代には地元から一歩も離れずに生活できることが特権だったのだろう。「歌枕見て参れ」が左遷の辞令なのだからなぁ。

それにしても夕霧、父親に輪をかけてしょうもない奴…。

さて本編はこの巻で終わり。「宇治十帖」はどんな話なのだか、本編以上に、よく知らない。

小田中直樹『歴史学ってなんだ?』(PHP新書)

ふと見かけた著者のTwitter投稿がキッカケで読んでみた。

「事実(史実)を知ることは可能なのか」「歴史(学)は役に立つのか(役に立つとすればどのように役に立つのか)」といった問いを軸に、タイトルの「歴史学ってなんだ?」というテーマを突き詰めていく本。例として挙げられる従軍慰安婦論争というセンシティブな問題については、三者三様の立場をもう少し整理して提示してほしかったような気もするが、二つの問いへの取組み方は誠実な印象を受けるし、自然科学との対比はもちろん、哲学からサブカルチャーに至るまで、著者の幅広い関心を反映した考察は面白く、そこから引き出される結論も納得がいく。

何よりこの本が危険なのは、紹介されている参考文献が魅力的なこと。特に直接歴史に関わる文献は新書や○○ライブラリーなど著者の言う「啓蒙書」中心で、非常に取っつきやすそう。著者が「愛読書」という良知力『青きドナウの乱痴気』を筆頭に、網野善彦『日本社会の歴史』や松田素二他『新書アフリカ史』が気になるところ。

背伸び志向のある高校1~2年生がこの本を読んで歴史家を志してほしいものだが、さすがに難解だろうか。いや、けっこう読めるのではないかと思うが。

平尾剛『脱・筋トレ思考』(ミシマ社)

しばらく前から読み始めてはいたのだが、先に読んだ『スポーツ・アイデンティティ』で著者の名前が出てきたこともあって、一気に読了。

競技スポーツ界における筋トレ(ウェイトトレーニング)偏重の風潮に異を唱える本なのだが、単純に「筋トレはダメ、やらない方がいい」と断じるものではない。むしろ、特に序盤では、著者が若きラグビー選手として熱心に筋トレに励んだ時期に味わった筋トレの楽しさや喜びが実にイキイキと描写されていて、読んでいるこちらも「よっしゃ、腕立て伏せやるか」という気になってくるのが面白い。そういう点も含めて、著者の筋トレに対する視線が非常にフェアであることが、この本の価値を高めている。実際、「それでも筋トレが必要なら、こういう風に取り入れれば弊害も抑えられる」という処方箋をきちんと提示しており、「筋トレはいますぐ止めなさい」といった安易な内容にはなっていない。つまりこの本は筋トレの守るべき領分をきちんと画定し、その「越権行為」を戒めるものであって、要はカントの主著でいう「批判」の意味における「筋トレ批判」なのだ。

後半は「筋トレ批判」から少し離れ、筋トレによって失われる・損なわれる可能性の高い「身体知」を細かく見ていく構成。どこまで著者のオリジナルなのか、単に著者がこれまで学んできた内容を整理した部分が大きいのではないか、という印象もあるが、いずれにせよ興味深いことは間違いない。日常の立ち居振る舞いの中でも、そうした身体知を感じ、高める道は豊富にある、というのは、恐らく武道の修行にも繋がる考え方なのだろうと思わせる。

 

田崎健太『スポーツ・アイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる』(太田出版)

著者の豊富な取材経験をもとに、「人格形成にスポーツの選択が関わっているのではないか」という仮説を探っていくという本。

著者は最初に、これは「ある特定の領域において経験の中で見出されてきた『知』」=「ローカルな知」であって、普遍性や証明可能性はないものだと断りをいれている。

とはいえ、ベースが著者の取材経験であるだけに、題材として取り上げられるサンプルが傑出したアスリートに偏っている印象は否定できない。瀬古利彦、伊良部秀輝(と彼を語る金田正一)をはじめとするプロ野球選手、釜本やジーコなど私ですら名前を知っているようなサッカー選手、佐山サトル、長州力、北島康介…。いずれも興味深いエピソードが続出するのだけど、これだけ個性的な顔ぶれから「スポーツ・アイデンティティ(SID)」を導出するのは、さすがに強引であるように思う。

また、肝心の「スポーツ・アイデンティティ」の概念にもやや疑問が残る。野球において投手のSIDと捕手のSID、あるいはその他の野手のSIDがそれぞれ異なり、たとえば投手のSIDとサッカーにおけるストライカーのSIDに共通するものがあるのなら、それは「野球」というスポーツ、「サッカー」というスポーツのアイデンティティではなくなってしまう。投手であれ捕手であれ、あるいはそれ以外の野手や守備につかない指名打者であっても、野球選手ならば誰にでも(プロ野球ではない下位のカテゴリーであっても)共通する何か、それを摘出してこそ、副題にあるとおり「どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」と大上段に振りかぶることができるように思う。

取材経験をベースにしていることの弱点が、著者が直接取材をしていない(と思われる)競技に話が及んだときに露呈してしまうのは無理からぬ話で、ラグビー経験者として名前が挙がるのが橋下徹というのは、いかに有名人であるとはいえ、さすがに苦笑してしまう。そもそも、橋下徹がラグビー的な人物であると考える人はほとんどいないのではないか(なお同じ箇所で、他書の引用という形でラグビーを語っている内田樹/平尾剛の師弟コンビは徹底した反・橋下の立場であり、選手として到達したレベルの大きな違いはさておき、平尾はラグビー経験者として、あるいはWTBのプレイヤーとして、橋下と同じ枠に入れられることは断固として拒否するのではないか…)。

とはいえ、「スポーツの選択が人格の形成に関わっているのではないか」という著者の仮説は非常に面白い。もちろん、その因果関係は双方向であって、「こういうスポーツをやってきたからこういう人間になった」もあれば、「こういう人間だからこういうスポーツを選んだ」もあるだろうが(大人になってから趣味として始める場合はむしろこちらが大きいだろう)。

そして恐らく、ポジションや種目が何であるかに影響されない、あるいは競技のレベルにも左右されない、あるスポーツのアイデンティティというのは、(それを選択する、それに適合する人間の特性と裏表で)確かに存在するのではないかとも思う。ひどく不遜な例ではあるが、瀬古利彦と、底辺ジョガーとしてフルマラソンを何度か走った私の間にも、「マラソン」を選ぶに至った共通の要素として「マラソンのSID」は存在するのではないか、と。

著者の発想を手掛りに、若い研究者がこのテーマに取り組んでいけば、ずいぶん面白いことになるのではないかと思うのだが。

アマンダ・リプリー『生き残る判断 生き残れない行動』(岡真知子・訳、ちくま文庫)

いつ頃からかTwitterで神戸大学の田畑暁生教授をフォローしているのだが、彼が紹介する本に興味を惹かれることはたびたびあって、この本もその一冊。

ああ、こりゃダメだなぁ…と思う。いや、「この本が」ということではなくて、災害や事件・事故に遭遇した場合の、私自身の見通しである。自分はダメな思考や行動をすべてやってしまいそうな気がする。たぶん助からない。

かといって、それを克服できるような訓練を重ねられるような状況にもない。

この本から得られる教訓や心得で実践できることがあるとすれば、呼吸法くらいかな。あと、次はいつになるか何の予定も立たないけど、飛行機に乗るときは、ほとんど誰も読まない「安全のしおり」をしっかり読もう。そして非常時の脱出口もしっかり(複数)確認しておこう。初めてのビルに入るときは(非常)階段の位置に常に注意しよう。

うむ、個人の資質や条件の点でパッとしなくても、できることはそれなりにあるのだ。

岡嶋裕史『思考からの逃走』(日本経済新聞出版、kindle版)

この著者については、自分はすでにファンと称してもいいくらいに気に入っている。

タイトルは言うまでもなくエーリッヒ・フロム『自由からの逃走』のもじりと思われる。

間違いや失敗を恐れる傾向が強まると、人は自分で判断することを避けるようになる。かといって、他人=他の人間による評価にももちろん間違いや失敗の可能性は付きまとうし、そもそも恣意性や偏見がたっぷり含まれる人間の判断に重要な意志決定を委ねる気にはなれない。だったらむしろ、AIに判断を委ねる方が…。

そういう人がリアルに増えている状況に対する、多面的な分析。

テクノロジー系の著者なので、AIに対してかなりフェアな見方をしているのがこの本の良いところ。引用・参照したい論点は実にたくさんあるので、ひとつひとつ言及はできないのだが、オススメの本である。

この本に欠けている視点というか、物足りない点があるとすれば、AIが常に「単数」で捉えられているように思えるところだろうか。人間の思考に代わって判断・評価を下すAIが並列的に複数存在している状況は当然ありうるわけだし、ではどのAIの判断を採るのかという点で、また人間の選択という要素が復活してくるような気もするのだが。

 

アイリス・ゴッドリープ『イラストで学ぶジェンダーのはなし みんなと自分を理解するためのガイドブック』(野中モモ・訳、フィルムアート社)

しばらく前から、同業というか、翻訳関係の人をTwitterで積極的にフォローするようにしていて、その中のお一人の訳業とのことで、手に取ってみた。

まぁ何というか、自分は世間一般よりは多少はマシなのかもしれないけど、それでもやはり認識をアップデートする必要があるよなぁとも思っていたし。

人は多様であり、しかも変化する、ということ。これに尽きる。

もちろん「実はそれほど多様でもなく変化もしないのではないか」という省察は折々のタイミングで必要だとは思うのだけど、それでも、他の側面について「多様であり、変化する」ことが当たり前のように思われているのと同じ程度には、性的指向や性自認についても考慮されるべきだろう、という気がする。

翻訳については恐らく評価が分かれるのではないか。ただ、原著(こちらはkindleで購入した)の文体の雰囲気を活かそうという意志を強く感じる。そして、私自身もついやってしまいがちなのだけど、文章だけを追って読んでいると、その「ノリ」がしっくり来ない。せっかくそういう作りになっているのだから、しっかりイラストを見つめながら読まないとダメ(そしてその意味では紙の本で読む方がよさそう)。

あと、私が読みやすい/読みにくいと感じる文章を、他の人もそのように感じるとは限らないのは当然なのだが、そういう「読みやすい文章とはどういうものか」という評価軸にも、かなりの程度ジェンダーバイアスがかかってくる可能性はあるよなぁ、という気がする。

そうそう、私自身も翻訳業界の末席を汚す身として、「代名詞」の話はたいへん興味深い。もっとも、当然ながら英語で書かれたこの本では「一人称単数」については触れられていないのだが、日々翻訳の仕事をやっていて悩むのは、一人称単数を何にするか、だったりする。クライアントによってはきっちり基準を示してくれたりするのだけど。

森毅『学校ファシズムをけっとばせ』(講談社文庫、kindle版)

しばらく前に、互いに無関係な友人二人がたまたま近いタイミングで作文・読書感想文を話題にしていたのを読んで、「そういえば、遠足の感想文を、実際に行く前におおよそのスケジュールだけ伝えて想像で書かせてみたら、むしろいきいきとした文章が…みたいな話があったな」と、この本を思い出した。

最初に読んだのはたぶん中学生の頃。その後もおおいに影響を受け続けている。

横溝正史『犬神家の一族』(角川文庫)kindle版

「なぜ急にこんな本を」と思われるかもしれないが、先日下諏訪を訪れた際にいろいろ調べていたら、諏訪湖(周辺)を舞台にした作品として挙げられていたので、「そうだったのか」とkindleで購入してみた。

市川崑監督の映画が1976年で、たぶんその頃に金田一耕助シリーズのブームが起きたのではないかと思う。映画を観たかどうか記憶が定かではないが、原作を読んだのは恐らくその後だろうから、たぶん40年ぶりに再読。横溝正史の作品は他に『八つ墓村』『本陣殺人事件』『蝶々殺人事件』(これは金田一耕助ではない)あたりを読んだはず。

当時は、けっこう本気で、不気味で恐いと感じたような記憶がある。

このような書き方から察していただけると思うが、何だか今回は全然恐くなかったのである(笑) 夜、就寝前に読んでも悪夢を見る気遣いはない。

いや、なんか、文体がね。さすがに今はこのジャンルにおいても、こういう文体・雰囲気の作品は成立しないだろうな、と思う。

紙芝居的というか講談調というか、キワモノの見世物というか、「さあさ、お立ち会い、寄ってらっしゃい見てらっしゃい」みたいな雰囲気といえばいいか。

リアリズム色がなく、もろにフィクションの人気シリーズという調子が前面に出ているし、「作者が読者に語る」という構図がはっきりしている。

たとえば主役の探偵である金田一耕助が登場するところで、

もし諸君が「本陣殺人事件」からはじまる金田一耕助の一連の探偵譚を読んでおられたら、この人物に関する説明は不用のはずである。(略)その推理の糸のみごとさは「本陣殺人事件」「獄門島」、さては「八つ墓村」の事件などで証明済みである。

などという「口上」がある(笑)

そもそも冒頭の章の末尾で、

いまにして思えば、この瞬間こそ、そののちに起った犬神家の、あの血みどろな事件の発端だったのである。

といった具合に、ある意味ネタバレしちゃっているし。

途中で2回、「言い忘れたが」というフレーズとともに邸宅の造りが説明されたりするのも、なかなか愉快だ。

何というか、純文学と大衆小説の区別がハッキリしていた時代だったのかなぁ、と感慨深い。

推理小説としての筋立てそのものは、なかなかよく出来ているように思う。もちろん、ご都合主義的な部分はけっこうあるように思うが。

諏訪湖(周辺)をめぐる描写はどうかというと、作中では「那須」「那須湖」という名称になっているのだけど(何も他に実在する地名を使わずとも、という気はする)、なるほど確かにこれは諏訪湖だな、と納得させる部分はある。作品の時代設定は終戦後数年といったところだろうが、「十二月もなかばを過ぎると、那須の湖は汀から凍りはじめる。スケートができるようになるには、ふつう年を越して、一月の中旬からだが」などという記述があり、なるほど地球温暖化が深刻になる前の描写だなぁと思わせる。