田崎健太『スポーツ・アイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる』(太田出版)

著者の豊富な取材経験をもとに、「人格形成にスポーツの選択が関わっているのではないか」という仮説を探っていくという本。

著者は最初に、これは「ある特定の領域において経験の中で見出されてきた『知』」=「ローカルな知」であって、普遍性や証明可能性はないものだと断りをいれている。

とはいえ、ベースが著者の取材経験であるだけに、題材として取り上げられるサンプルが傑出したアスリートに偏っている印象は否定できない。瀬古利彦、伊良部秀輝(と彼を語る金田正一)をはじめとするプロ野球選手、釜本やジーコなど私ですら名前を知っているようなサッカー選手、佐山サトル、長州力、北島康介…。いずれも興味深いエピソードが続出するのだけど、これだけ個性的な顔ぶれから「スポーツ・アイデンティティ(SID)」を導出するのは、さすがに強引であるように思う。

また、肝心の「スポーツ・アイデンティティ」の概念にもやや疑問が残る。野球において投手のSIDと捕手のSID、あるいはその他の野手のSIDがそれぞれ異なり、たとえば投手のSIDとサッカーにおけるストライカーのSIDに共通するものがあるのなら、それは「野球」というスポーツ、「サッカー」というスポーツのアイデンティティではなくなってしまう。投手であれ捕手であれ、あるいはそれ以外の野手や守備につかない指名打者であっても、野球選手ならば誰にでも(プロ野球ではない下位のカテゴリーであっても)共通する何か、それを摘出してこそ、副題にあるとおり「どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」と大上段に振りかぶることができるように思う。

取材経験をベースにしていることの弱点が、著者が直接取材をしていない(と思われる)競技に話が及んだときに露呈してしまうのは無理からぬ話で、ラグビー経験者として名前が挙がるのが橋下徹というのは、いかに有名人であるとはいえ、さすがに苦笑してしまう。そもそも、橋下徹がラグビー的な人物であると考える人はほとんどいないのではないか(なお同じ箇所で、他書の引用という形でラグビーを語っている内田樹/平尾剛の師弟コンビは徹底した反・橋下の立場であり、選手として到達したレベルの大きな違いはさておき、平尾はラグビー経験者として、あるいはWTBのプレイヤーとして、橋下と同じ枠に入れられることは断固として拒否するのではないか…)。

とはいえ、「スポーツの選択が人格の形成に関わっているのではないか」という著者の仮説は非常に面白い。もちろん、その因果関係は双方向であって、「こういうスポーツをやってきたからこういう人間になった」もあれば、「こういう人間だからこういうスポーツを選んだ」もあるだろうが(大人になってから趣味として始める場合はむしろこちらが大きいだろう)。

そして恐らく、ポジションや種目が何であるかに影響されない、あるいは競技のレベルにも左右されない、あるスポーツのアイデンティティというのは、(それを選択する、それに適合する人間の特性と裏表で)確かに存在するのではないかとも思う。ひどく不遜な例ではあるが、瀬古利彦と、底辺ジョガーとしてフルマラソンを何度か走った私の間にも、「マラソン」を選ぶに至った共通の要素として「マラソンのSID」は存在するのではないか、と。

著者の発想を手掛りに、若い研究者がこのテーマに取り組んでいけば、ずいぶん面白いことになるのではないかと思うのだが。

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