先日来の超私的「遺伝子ブーム」の流れで、これを読んでみました。
これまた、出発点となるアイデアは面白いのに、「物語る力」が負けている気がします。
ホラー小説だからしかたないのかもしれないけど、恐怖の対象を、視覚・聴覚といった五感で捉えられる存在に転換する(要はモンスターを登場させる)必然が感じられません。まぁ、そうしておかないと映画化とかは無理なんだろうけど、なんかチープな仕上がりになっています。
巻末の筆者の自己解説もやや言い訳っぽい雰囲気があって感心しません。
しばらく前に話題になっていたので気にしていたのだけど、文庫化されたので読んでみました。
「イスラム主義政党がフランスで政権を取る可能性」という想定の、近未来政治小説とでも言おうか。舞台になっているのは2022年なので、「次」ということになります。国民戦線のマリーヌ・ルペン、フランソワ・オランドといった政治家も含め、実在の人物の名もたくさん出てきます。
しかし、設定というかアイデアはたいへん面白いのだけど、残念ながら、小説としては出来が悪い。
このあいだ終わった2017年大統領選の展開・結果がこの小説の想定とはまったく違ってしまったのはもちろんしかたないとして、そもそも、この小説のなかで設定された状況が、後半になってかなりの程度なおざりにされてしまっているのです。なんか、面白い設定を思いついて書き始めたのだけど、途中で面倒くさくなって放り出しちゃった感じ。
というわけで、興味深い点がなくはないけど、あまりお勧めはしません。
著者がいて、出版社があって、「取次」があって、書店があって、自分のような読者がいる。そういう「本」をめぐる構図はいちおう理解していたものの、具体的にどう本が動いているのかとか、金銭的な条件などには疎かった。
その意味で、将来的に出版社を起こして、とかそういうことはまったく考えない、単に読者としての立ち位置からしても、著者の個人的な体験というリアリティを伴いつつ、その部分がまず垣間見られたのは面白かった。
さて、そんな基本的な話は導入部分にすぎず、本書のテーマは「トランスビュー方式」を軸とする、新たな出版流通の試み。
伝統的な出版→取次→書店という仕組みは、体力のある大手出版社・大手取次の、いわば「権力」のもとで、多少の不公平感や不満はありつつも、さほど「志」の高くない書店や中小出版社でも何とかやっていける、そういう生態系。
それに対して、トランスビュー方式など「直」取引は、「売れる」本ではなく、「売りたい」本を刊行したい、「売りたい」本を並べたい、「志」の高い出版社や書店のためのシステムのようである。
どんな本を売りたいかいちいち選んで、注文から何から個別の出版社といちいちやり取りするほど気合いの入った書店なんて、そうそうない、というのが現実だろう。しかし、そういう、さほど「志」の高くない書店でもあっても生き残っていける、ある意味で優しい従来のシステムが先細りになっていく状況において、それが唯一無二のシステムであれば、「志」の高い書店や出版社も、他に本の流通を実現する手段を持たずに、道連れに滅びてしまうことになる。
その意味で、「直」は、必ずしも現行の取次システムに取って代わるものではなく、それを補完したり、いざというときに逃げ込めるような、そういうオルタナティブなのだなぁ、というのが本書の読後感。
そんな私がこの本を読んだ翌日、明らかに「志」の高い駅前の書店で買った本は、1冊が講談社文庫(大手出版社だから当然取次経由)、もう1冊が、裏表紙を見れば、ああやっぱり「トランスビュー取引代行」のシールが貼られていたのでした。
ちなみに、私のような門外漢の読者にはさほど必要ないのだけど、索引がしっかり付いているところもこの本の美点の一つだと思う。
『飛ぶ教室』を読んで『君たちはどう生きるか』を連想し、そういえば吉野源三郎の文章って他に読んだことがないなぁと思って、これを図書館で借りる。
1970年代、つまりソ連崩壊も中国の市場主義経済大国としての台頭もはるか先の頃なので、もちろん、その時代の条件に制約された文章ではあるのだけど、誠実さとか真摯さという意味では、そういうのってあまり関係がない。
本編は、当時進行中だったヴェトナム戦争についての文章・講演録なので、さすがに今日性はじゃっかん薄れているが、冒頭に置かれた「同時代のことー序に代えて」は、今でも切々と訴えるものがある文章だ。
「実際に日常の生活に衝撃を与えるような事件が起こるとか、そのような状況が発生しない限り、大多数の人々は自分たちの日常に直接かかわりのないことに眼を配ろうとはしないのが常である」(p23)
「この危険は、日本の場合には、国民が無知の状態に置かれるという危険だけに留まらなかった。国民を無知の状態に置こうと努める者自身が、いつのまにか恐るべき無知に陥っていたのである。」(p24~25)
『飛ぶ教室』を読んだ後、ケストナーについていろいろ情報を仕入れているうちに、児童文学ではない作品を読みたくなって、タイトルに惹かれて、これを図書館で借りてみた。
くだらない……と言ってしまうと失礼だが、たあいのない話。
ザルツブルクが舞台なのだけど、まさに『フィガロの結婚』とか、いや、もっと小体な、オペレッタにでもありそうな話。訳文はいかにも古めかしいが、むしろふさわしい雰囲気を醸し出している。
原題とはまったく違う「一杯の珈琲から」という洒落た邦題のつけかたも、昔の映画みたいでよい。最後のオチも気が利いている。
『飛ぶ教室』と違って、これが世界に存在しなくてもたいした損失にはなるまいが、愛すべき佳品。好きだなぁ、こういうの。
(書影は東京創元社のサイトより拝借)