2024年に読んだ本」タグアーカイブ

北村一真『英語の読み方 ニュース、SNSから小説まで』(中公新書)

Twitter(現X)で著者の投稿を見かけて手に取った。

大学受験で身につけた「英文解釈」から、実践的な英語の読みにつなげていく感じの本、と言えるだろうか。「to不定詞」とか「分詞構文」とか、そういう40年くらい前に目にしていた文法用語も頻出する。

例文の量がそれほどあるわけではないので、これ一冊読めば英語が読めるようになるとかいうわけではないけど、取っかかりとしては良い本だと思う。

まぁもちろん私にとっては易々と読める文章ばかりだし、「翻訳」の手引きではないので、添えられている参考訳文は、もう少し良くなるのではないかと思うことも一度ならずあったけど。

私としては、「読み方」それ自体よりも、それをリスニングにつなげていく展望が示されている点がよかったかもしれない。私は翻訳はできても、会話方面はさっぱりなので…。

内田樹、中田考、山本直輝『一神教と帝国』(集英社新書)

『一神教と国家』で対談した内田、中田に加えて、トルコの大学で東アジア文化論を教える山本直輝を加えた鼎談。

前作に比べて「一神教」という視点は弱く、もっぱらイスラームの話で、偏りが気になると言えなくもない。

まぁ何よりも、脱線に近い部分が面白くて、特に、ムスリムのあいだでも日本のアニメやマンガが人気で、それを通じて日本語を覚えているので…といったあたり。私はアニメは苦手なのでそのへんの話には疎いのだけど、『ゴールデンカムイ』は読もうかなぁとか、『乙嫁語り』は気になるなぁとか、そっちを印象づけられてしまった。『ゴールデンカムイ』は家人が電子書籍で買ってしまったというが、重複するけど私も買おうかな…。

あとは、大学受験のときに少しは勉強した漢文を学び直してみようかなぁ、とか。

藤沢周平『孤剣-用心棒日月抄』(新潮文庫)

というわけで、続編も読む。

幕府直属の「公儀隠密」に比べて、小藩に属する特殊部隊にすぎない「嗅足組」(の女性たち)が強すぎるのに違和感を抱くが、まぁ主人公サイドなので(笑)

前作から引き続き、用心棒仲間の細谷源大夫や口利き屋の相模屋吉蔵といった脇役が良い味を出している。

そういえば以前、琉球民謡関係のライブのお手伝いをしたことがあり、依頼を受けたときに「ティマを出せなくて申し訳ないのだけど」と言われた。「ティマ」=「手間賃」で、要するにノーギャラでよろしくということだなと理解したのだけど、その後ウチナーグチ辞典みたいなサイトで調べたところ、それで正解であった。

この『用心棒日月抄』シリーズを読んでいると、用心棒稼業で稼ぐ報酬が「手間」と呼ばれている。内地でも、ギャラのことを「手間」と呼んでいたわけで、ひょっとすると、元は内地から琉球に伝わった言葉が今も残っているのかもしれない、などと想像する。

内田樹・中田考『一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教』(集英社新書)

先日『世界史の中のパレスチナ問題』を読んで、

たぶん、国民国家という枠組が有力なままであるあいだは解決できない

という感想を抱いたのだけど、そういえばウチダ先生がこんな本を書いていたなと思い、読んでみた。

対談形式ということもあって、いつものやや乱暴な、というか粗い展開に拍車がかかっている印象もあるけど、とはいえ、まじめに受け止めるべき内容もけっこうあるように思う。タイトルにある「国家」は、ほぼ「国民国家」を指しているのだけど、国民国家という擬制が何が何でもダメで全廃しろ、という話ではない。国民国家がうまくハマる地域や時代、状況もあるし、それがほとんどすべての災厄の原因になってしまうこともある、ということである。人権や自由や平等といった西欧近代的な価値観はかなりの程度普遍的なものだと個人的には思うけど、それを実現していくための体制はいろいろであっていいはずなのだ。

それにしても、国民国家の成立の過程では、ラテン語ではなく各国語による聖書の成立とか宗教改革とかが背景として大きかったと思うのだけど、ラテン語を域内共通言語とするローマカトリックの影響力が十分に維持されていたら、世界はどうなっていたのだろう、という気がする。この本では、キリスト教とイスラーム、ユダヤ教がそれぞれどのように違うのかという点は語られるのだけど、キリスト教に生じたことが、その是非はともかくとして、なぜイスラームでは生じなかったのか、それともこれから生じる可能性があるのか、という点については、残念ながら触れられていない。

藤沢周平『用心棒日月抄』(新潮文庫)

『たそがれ清兵衛』『蝉しぐれ』に続き、藤沢周平作品。

これも面白かった。

数年前にまとめて読んだ葉室麟の連作も赤穂浪士の討ち入りが背景になっていたのを思い出す。こういう、たいてい誰でも知っている事件のサイドストーリーを描くのは、まず間違いなく面白くなるような気がする。『忠臣蔵』は昔、子ども向けのバージョンで読んだきりだと思うのだが、吉良邸の隣、土屋家の高張り提灯が塀際に掲げられている、という本作でも描かれる情景はよく覚えている。

そういえば、たとえば「宮本武蔵なら吉川英治」みたいに、現代の時代小説(という言い方も変だけど)における『忠臣蔵』の定番というのはあるのだろうか。

本作末尾にかけていろいろ伏線が張られているので、続編も読むことになりそう。

しかし主人公、本作では最終的に美しい許嫁と結ばれるのに、伏線的には他にも複数の魅力的な女性と関わりがあって、困ったことになりそうな予感がある。

 

鴻上尚史『八月の犬は二度吠える』(講談社)

著者が主宰していた虚構の劇団/第三舞台のファンにとっては、「舞台にするなら、この役はあの人かな…」などと想像をめぐらせる楽しみのある作品。そうやって考えているとだんだん役者の数が足りなくなったり、時間的・空間的な移動の関係でなかなか演出が難しそうだったり、ああ、やっぱり舞台では難しいことを小説でやりたかったのかなぁと思わせる(舞台化もされているみたいだけど)。

しかしこの作品で本当に面白いというか興味深いのは、主人公たちの物語が最終的にはとても残酷で、その残酷さはむしろ滑稽とまで言えるのだけど、ひょっとしたらそれは作者が期待した解釈ではないのかもしれない、と思わせるところだ。もし「いや、その解釈は私の意図した通りですよ」と作者が言うなら、けっこう意地悪な書き方というか、読者の多くの部分は、それとは違う解釈のまま読み終わってしまうような気がする…。

ネタバレになってしまうけど、要するに、「彼女が命を絶った理由と、彼女がそのとき望んでいたこと」を、主人公たちは理解しないまま今に(つまり小説の末尾にまで)至っている、ということだ。しかし、「主人公たちは勘違いしたままである」という設定が作者が意図したものだ、と言えるかというと、これはまた問題である。

いずれにせよ、複数の解釈や読み方を許容するという点で、それが作者の意図したものであるかどうかはともかく、良い作品だと言える。

又吉直樹『火花』(文春文庫)

珍しく、話題を呼んだ芥川賞受賞作品を読もうと思ったのは、先日読んだ宮沢和史『沖縄のことを聞かせてください』に対談相手として著者が出てきたから。

著者自身がモデルと思われるお笑い芸人の話だが、まぁ芝居でもバンドでも映画でも文学でも、表現者を主人公にした物語として普遍性のある作品だと思うが、悪く言えば、ありきたりとも思える。受賞に至ったのは、やはり昨今のパフォーミングアートの中では人気を集めやすい「お笑い」が主題だったからなのかな、という印象。

私自身はお笑いという芸事にほとんどまったく関心がない。それは、実際に見ればもちろん大笑いして楽しめるのだろうけど、本当に自分が面白いと感じるのはまったくオチのない話だったり、ボケもツッコミもなしに延々と続けられる会話だったりするだろうなぁ、と思ってしまうからなのだ。そもそも、(この作品でもそういう設定が出てくるけど)観客の投票によって順位をつけるような世界にはどうにも違和感があって、誰も笑わないけど自分だけが面白いと思うようなネタが本当に面白いのだ、とも思う。ある意味で、この作品の主人公が師匠と仰ぐ神谷という人物は、そういう面白さを追求している(したいと思っている)のかもしれないが。

 

久世光彦『ベスト・オブ・マイ・ラスト・ソング』(文春文庫)

和田静香さんのnote→小泉今日子(朗読)/浜田真理子(歌・ピアノ)『My Last Song』を経由して、この本を手に取った。

第二次世界大戦で命を落とした将兵を「美しい日本の山河を護るために、死んでいった」と捉えるような戦時下への郷愁や、読んでいるこちらが恥ずかしくなるような旧態依然としたジェンダー観は、実に産経文化人的な印象で、ちょっと辟易するほどである(それも無理からぬ話で、何しろ初出は「正論」での連載なのだ)。そういう思想と相容れなさそうな小泉/浜田へとつながっていくのが不思議なくらい。

とはいえ、もちろん、私にとっても琴線に触れる楽曲が取り上げられている章もたくさんある。

なかでも、小泉/浜田のCDに収録されていなかったせいもあって意表を突かれたのが、「おもいでのアルバム」という曲。本文中に引かれた歌詞を目にするなり、即座に頭の中でそのメロディが流れ始めた。実際に自分が歌ったとすれば50年以上前。その後何かの折りに耳にすることがあったとしても…いや、そうそう接する機会はない歌だし、いずれにせよ、物心つく前のはずだ。そもそも、タイトルさえ記憶になかった。というより、知らなかった。そんな歌が、歌詞を示されただけで脳裏に再現される。そのこと一つをとっても、歌というのは不思議なものである。

さて、私が「マイ・ラスト・ソング」に選ぶとしたら、何の歌だろう。実はMy Funeralと題したプレイリストはあるのだけど、これは、もし自分を偲んでくれる人がいるとすれば、そのあたりの曲と共に覚えていてほしいという話であって、自分が臨終の際に聴いていたいというのとはちょっと違う。

ところで著者の一曲は、結局これと決まったのだろうか。急逝だったようだから、実際にはそれを聴きながら、というわけにはいかなかったかもしれないが…。

臼杵陽『世界史の中のパレスチナ問題』(講談社現代新書)

古くは古代ユダヤからキリスト教の誕生、そして現代に至るまでの歴史の中に中東・パレスチナ問題を位置づけるという、新書サイズでそれをやるか、という野心的な内容。いちおう知っている内容が多かったけど、平易さをめざして「ですます」調で書かれているせいで、却って読みにくくなっている印象もある。

本書の出版は2013年なので、今まさに展開中の事態について直接的な手がかりになるとは限らないが、かつてはアラブ(諸国)対イスラエルという構図だったのが、どのような経緯で「パレスチナ」に凝縮されていったのかは伝わってくる(何しろ情報量が多いので消化不良にはなるが)。

結局のところ、問題の大半はキリスト教国、もっとはっきり言えば欧米諸国の責任だよな、という話になってしまうのは必然なのだけど、それも数百年にわたる話なので、現代の欧米諸国がきちんとその責任を取るというのも現実的には無理筋。一方で、もちろん、イスラエルのここ数カ月の行為が許される理由は皆無である。

今回のイスラエルによるホロコーストで、問題の解決はさらに30年、あるいはそれ以上先送りされてしまったと思うのだけど、ひとまずは、できるかぎり流血の事態を防ぐ対症療法に徹して、新たな英知が芽生えるのを待つしかない、という気がする。たぶん、国民国家という枠組が有力なままであるあいだは解決できないのだろう。

 

藤沢周平『蝉しぐれ』(文春文庫)

家人の実家には藤沢周平作品がけっこう揃っていて、年明けに新年会で訪れた際に、「『たそがれ清兵衛』を読んだけど、次に何を読もうか」と相談したら、この作品の名が挙がったので借りてきた。

一つの中編作品なのだけど、それを構成する一章一章が独立した短編でもあるかのように存在感があって、そこがよい。一気に何章も続けて読むのではなく、一章ずつ、日数をかけて読んでいく感じ。

巻末の解説で西欧の近代小説との類似が指摘されている影響もあって、読後、何となく、フローベール『感情教育』を再読したくなった。

(↓ 画像とリンク先はkindle版だが、現行の文庫版は上下二冊になっているようなので。私が読んだものは一冊)