読んだ本」カテゴリーアーカイブ

小野寺拓也、田野大輔『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』(岩波ブックレット)

良書。

巻末のブックガイドの最初に出てくる石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社現代新書)などをすでに読んでいるので、私としては「え、そうだったのか!?」という新しい発見はそれほど多くないのだけど、「ナチスは良いこともした」と主張する人たちが挙げる「良いこと」を、よく整理された論点で丁寧に検証している。その意味で、今後、一つのリファレンスとして有益な存在になる本(というか冊子)だと思う。

「おわりに」の部分で、「ナチスは良いこともした」と主張したがる人たちの動機や心理について考察しているのだけど、もちろん批判的な考察ではあるのだが、どことなく、その視線に温かみがあるところも、この本の優れたところだと思う。Twitterで眺めていると、この本を読みもしないで共著者である田野氏に噛みついている人がいるのだけど、そういう人への田野氏の応対も、けっこう穏やかで温かい。

片岡義男『彼のオートバイ、彼女の島(kindle版)』(ボイジャー)

続いて、この作品。

これはバブル華やかなりし頃、映画を観た覚えがある。監督は大林宣彦だったのだなぁ。ロードショーだが二本立てで、メインは『キャバレー』だったはず。

オートバイ愛が横溢している作品だけど、実際にオートバイに乗っている人が読むとどう思うのだろうか。「オートバイに乗ること」に憧れる人にとっては、いまも魅力に溢れる小説なのかもしれない、という印象。

まぁ私個人としては、かつてはいざ知らず、オートバイにはまったく関心が持てなくなってしまった。自分自身がエンジンである「バイク」に乗るようになってしまうと、ねぇ。

「島」の描写は良い。行ってみたくなる。輪行で。

 

片岡義男『スローなブギにしてくれ(kindle版)』(ボイジャー)

というわけで、片岡義男と鴻巣友季子の対談を読んだ関連で、片岡義男の作品を読んでみた。かつて、『彼のオートバイ、彼女の島』を読んだことがあるような気がするのだが、とりあえず、[代表作」とされている、これを。映画の主題歌である南佳孝の曲は馴染みがあるが、原作を読むのは初めて。

う~む、これでチャンドラーなどの作品について「表現は陳腐」とコメントするのは、ちょっとどうかと思う…。せめて、タイトルは本文中に出さないでほしかった。作品の多くは絶版になっているものの、このkindle版の版元でもあるボイジャーが運営する「片岡義男.com」で電子化が進められているという。ただ、この作家が再評価される可能性というと…なかなか厳しいのではないか。

かつて村上春樹『ノルウェイの森』がベストセラーになったとき、文芸評論家の誰かが(その後セクハラで問題になった人だったかもしれない)「朝日ジャーナル」で、「この二人の恋愛に感動した人は、島尾敏雄『死の棘』を読んで、通俗と文学の違いを知ってほしい」とコメントしていたのを思い出す。もっともこのとき私は、「それなら」とさっそく『死の棘』を読んで、「もちろんこれも凄い作品だけど、他方を通俗と腐す理由にはならないのでは?」と思ったものだが。

片岡義男・鴻巣友季子『翻訳問答 英語と日本語行ったり来たり』(左右社)

翻訳家の鴻巣友季子、作家であり訳業もある片岡義男が、英米文学の名作の冒頭を題材として翻訳を試み、それをネタに対談する、という構成。

片岡義男は、いろいろ偉そうなことを言うわりには、訳文そのものはそれほど上手くない。鴻巣友季子は専門家だけあって敬服してしまうが。

なお、末尾に、「Lost and Found in Translationという英語タイトルは片岡義男が考えた」という注記があるが、それなら、そもそも「翻訳問答」というタイトルが何をもじったものかにも言及すればいいのに、と思う(って、それは私の勝手な連想かもしれないのだけど)。

翻訳小説を読むのは好きでも、自分で文芸翻訳をやろうと思ったことはほとんどない私だが、これを読むと、ちょっと自分でもやってみたくなる。まぁそういう仕事は来ないだろうし、仕事の傍ら試みるような暇はないのだけど。

たまたま、この本を読んでいる間に受けた原稿で、ヘミングウェイの一節(といっても登場人物の会話のごく一部)を訳す必要があり、いちおう既訳も参照したのだが、あまり納得できるものではなかったので、結局自分で訳して納品したら、そのまま掲載されたようだ。

 

飯野賢治『息子へ。』(幻冬舎)

以前、bookmeterというサイトでこの本の感想を書いたことがあったようで、どなたかが何の弾みで発見したのかツイートしてくれたので、「こんな本読んだっけ?」と。

せっかくなのでkindleで購入して再読。著者はゲームクリエイターとのこと。息子に宛てた手紙という形で、福島第一原発の事故と、原発の是非について語っている。

かつて読んだのは2013年だったようだが、そのとき私は「しごく真っ当な内容。これくらいのことが『常識』になってほしいものです」という感想を書いている。今回も本書の感想としてはそれに変わりはないのだけど、それから10年が経って、「これくらいのことが常識にはならなかったのだなぁ」という苦い感慨がある。もしかしたら、2012年7月にこの社会は後戻りのできない道を選び、未来を捨てたのかもしれないなぁ。

 

 

鴻上尚史『愛媛県新居浜市上原一丁目三番地』(講談社)

鴻上さんの、小説ということにはなっているけど、どこまでフィクションの要素が入っているのか判断しかねる、自叙伝と呼んでもいいのではないかと思うくらいの作品集。これまでにもエッセイなどで語られてきた、たぶん事実に基づいているのであろう話も、二篇目を中心にふんだんに出てくる。

けっこう、しんどくて辛い内容である。時代の寵児みたいな扱いをされることもあった人だし、成功者だとは思うけど、まぁそれでも、しんどい人生を歩んできたのだなと思う。

しょうもない感想だけど。

 

シュテファン・ツヴァイク『チェスの話 ツヴァイク短編選』(みすず書房)

何やら、この作品を原作とする映画が公開されるようなので、ふと興味を惹かれた。

著者の名は何だかよく目にするような気がするけど、何を書いた人なのかよく知らない。『マリー・アントワネット』とか『メアリー・スチュアート』といった伝記文学が有名、とのことだが読んではいない。解説の池内紀によれば、通俗と見なされてドイツ文学界ではあまり評価されていないのが残念、ということのようだ(ただし同氏の解説についてはAmazonのレビューで厳しい指摘がなされている)。

四篇の短編が収録されているのだが、どれもなかなか面白い。

しかし、刊行が2011年なのに、なぜ新訳で出さなかったのだろう、という疑問が湧く。訳者4人はいずれも1920年代の生まれで、実際にこれらの作品を翻訳したのがいつ頃なのかは不明だが、当然ながら古くささは否めず、「さすがにこれはちょっと…」と感じる部分がいくつかある。たとえば「何を僕が一体君にしたんだい?」(本書P113、『不安』)などという訳し方は、原文のドイツ語の語順がそうなっているのだろうけど、現代の翻訳者ならまずやらないだろう。「いったい僕が君に何をしたというんだい?」くらいか。

とはいえ、作品を楽しむ上でそういう翻訳の古さが致命的かというと、そうでもない。むしろ、昔の翻訳者の力量の高さに驚かされる方が大きいと言えるかもしれない。何しろ作品中に出てくるあれこれをインターネットで調べるなんてことはできない時代だったはずだから。

ちなみに、映画のサイトを見ると、よくあることだが、原作『チェスの話』からはかなり乖離した内容になっている模様。原作もかなり壮絶でドラマチックな内容なのだけど、心理的な描写が多いので、そのままでは映像作品にはならないのだろう。面白そうではあるが、映画を観るかどうかは何とも言えない…。

筒井康隆『家族八景』(新潮文庫)

先日、『日本以外全部沈没』を読んで、どの作品もかなりつまらなかったのだけど、そういえば『七瀬ふたたび』『エディプスの恋人』は、名前をよく知っているのに読んだことがないなと思い、まず、その前物語とも言えるこの作品を読んでみた。

これはなかなか傑作。読心能力を持つ主人公・火田七瀬が目にする「家族」の心の内は、やはりきわめて猥雑で下劣であり、露悪趣味を感じる部分もあるけど、『日本以外…』のように誇張されて鼻につく印象はない。

それにしても、主人公はこの八篇の中で、直接一人を発狂させ、二人(あるいは三人)の死を間接的にもたらすのだから、なかなか罪深い存在である。

いずれ続篇二つも読むことになりそう。

下野康史『ポルシェより、フェラーリより、ロードバイクが好き』(講談社文庫)

かつて、20世紀の最終盤にあたる10年くらい、「NAVI」という自動車雑誌を愛読していたのだけど、この雑誌でよく書いていた自動車評論家。自転車乗りでもあったのか。そういえば姉妹誌というかスピンアウトみたいな形で「Bicycle NAVI」というのも何号か出ていたような気がする。

というわけで、著者の名前の懐かしさだけで手に取ったのだけど、序盤から固定ギアを推してくる。「ゆっくり走っても楽しめる」「特殊な自転車であることはもちろんだから、めったやたらに人に薦められるものではない」「自転車をこぐ楽しさにおいて、固定ギア以上のものはないとぼくは信じている」

「坂バカ」でもあるようだし、たいへん楽しめる内容だった。

中村文則『逃亡者』(幻冬舎文庫)

何かの折にこの作品が目に入り、新聞連載時に読んでいた記憶はあるのだが、ラストまで完走したのか自信がなくなり、手に取ってみた(諸般の事情で、新聞連載が完結する時期に数週間にわたって新聞購読を中断してしまう年があり、熱心に読んでいたのに結末を知らないという場合がけっこうある)。

政権・社会の右傾化や、いわゆるネトウヨなど非知性的な人々の群れについて、こうした小説の中で言及されているのを目にするのは端的に言って好きではない。そういう現実に日々接しているからウンザリというのもあるし、そうした直接体験に比べて、どうしても嘘っぽいというか、何を指しているのか一目瞭然なのにわざとらしい架空名が使われているときに感じるようなハリボテ感を受けてしまう。

というわけで、新聞連載時には、この作品のそういうところが鼻についていたような記憶があるのだけど、今回再読してみたら、意外に大丈夫だった。もはや、そんな不満を言っていられないほど、そうした空気が現実の中に満ちてしまっているせいかもしれない。

タイトルに示されるサスペンス的な部分もかなり読ませるが、価値が高いのはやはり長崎に関する叙述だろうか。