磯田道史『天災から日本史を読み直す 先人に学ぶ防災』(中公新書、kindle版)

歴史研究者の視点から、過去の天災(本書で扱われているのは地震、津波、台風による高潮)の記録に当たって、現代への教訓を読み取ったり、歴史の流れに与えた影響を分析する、という本。

文化的な要因が被害のありかたに影響したという分析がなかなか興味深い(瓦屋根が普及し、その重さに構造的な強度が追いつかずに建物の倒壊に至るとか、親孝行の道徳ゆえに老親を助けるため子どもを見捨ててしまうとか)。また、秀吉が家康を討伐しようとしていたところ、地震の被害のために戦争準備が阻害されて家康は命拾いしたとか、幕末の佐賀藩で高潮被害を防げず大きな被害を出したことで世代交代を強いられて改革が進んだとか、そういう話も良い。

ただ、そういう「日本史を読み直す」という表題にふさわしい部分をもっと語ってほしいし、災害が歴史の流れに与えた影響をもう少し巨視的にパターン化するようなアプローチも欲しかった気がする。

元は新聞(別刷り?)での連載だったものをまとめたようで、腰の入った一貫性のある著作というよりは、気軽に読める歴史コラム集のような体裁なので、そこまで期待するのは筋違いか。

とはいえ、章によって差があるのだけど、「妻が『朝ごはんぐらい食べていって』というのを振り切り、家を飛び出した」とか「私は、妻に手渡されたリンゴ一切れを口にくわえたまま浜松駅バスターミナル八番乗り場に急いだ」みたいな記述は、書籍にするときは整理してもよかったのではないかなぁという気がしてならない。

Amazonに掲載された書影を見ると、帯に「日本エッセイスト・クラブ賞受賞!」とあるが、エッセイとして読むのであれば、他にも魅力的なものはけっこうありそうに思うのだが……。

 

與那覇潤『知性は死なない-平成の鬱をこえて』(文藝春秋、kindle版)

ううむ、高い評価も聞いていたのだけど、これは期待外れと言うしかない。

うつ病、あるいは躁うつ病(双極性障害)に関する部分についてはなるほどと思わせる部分は多々あったが、それ以外の(というか肝心の?)、知性/反知性主義に関する部分はあまりにも乱暴という印象。そうやって乱暴な二項対立を設定しておいて、結論としてその二項対立を克服するような論法になっているので、「そもそもの設定に無理があったのでは」という印象が拭えない。

まぁそういうドラマはあちこちにありそうだが……。

が、いずれにせよ本書で言及されている何冊かの本は読んでおこうという気になったのは事実で、収穫はそれくらいかな……。

 

苅部直『「維新革命」への道:「文明」を求めた十九世紀日本』(新潮選書)

先日『夜明け前』を読んだのを機に、ふと国学方面について書かれたものも読んでみようかなぁと思っていたところ、旧知の著者のこの本が目についたので読んでみた。

まるで橋下徹が著者でもおかしくないようなタイトルだが、そうではなく、これは真面目な本(第一章では「日本維新の会」の名称をマクラとして使っているが)。

ペリー来航を機に当時の日本が「文明」に初めて出会い、それまでとはまったく違う新しい社会へと変わっていったという通俗な維新観に疑問を呈し、明治維新を「含む」十九世紀という時期のなかで、すでに市場の発達や「経済」の前景化、それこそ本居宣長に代表される国学のなかでさえ、進歩史観の萌芽や「文明」観の変化が進んでいたことを説き明かす本。

幕末・明治維新について世に語られる個々のエピソードにはさまざまにドラマチックなものがあるのだけど、そういう派手な浮き沈みに目を奪われることなく観察すれば、結局のところ、伏在しているこの種の底流が歴史を動かしているのだろうなぁ、としみじみ思う。

これを読んで『夜明け前』の主人公に思いを馳せると、街道・宿場町の主たる担い手として、そうした勢いを感じうる立場にあった、それなのに…ということが、いっそうその悲劇を際立たせる気がする。主人公を親しく遇する江戸の庶民一家がそれなりに時代に適応していっている様子を見ると、やはり都市住民ではないという点が影響したのかなぁ…。

次に読み始めた本にどうにも「軽さ」を感じてしかたがないので、この著者の、狙いは鋭くとも鉈の切れ味とでもいうべき「重さ」に好印象を受ける。とはいえ、そもそも雑誌連載がベースであり、あくまでも一般向けということで読みやすくはあるのだけど。

 

野矢茂樹・西村義樹『言語学の教室』(中公新書)

たぶんAmazonのお勧めに引っかかったのだと思う。

野矢氏についてはウィトゲンシュタイン関係の訳書や研究書を買うだけ買って、難しそうなので手を付けていない。『哲学の謎』は読んだ気がするが、あとは少し前にエッセイ『哲学な日々』を読んだくらい。

この本は、チョムスキーの生成文法論に対する批判から生まれた認知言語学という分野について、野矢氏が専門家である西村氏に入門していろいろ聞いていくという構えなのだけど、何しろ野矢氏も言語哲学の専門家なので、まるでウィルキンソンとベッカムがキックを蹴り合っているような趣がある(←分らん)。認知言語学という分野の特徴なのか、一般向けの本としての配慮なのか、分析の対象とする例文、表現がどれも身近で平易なもの(日本語だと、「雨に降られた」「彼女に泣かれた」「村上春樹を読んでいる」)なのでとても読みやすいのだけど、言っている内容自体は、けっこう人間の認識というか知性のありかたに踏み込むような深さがあるように思う。

こういう表現を使う言語と使わない言語があるといった部分はもちろんのこと、翻訳をやる身としてはかなり楽しめる本だった。

あと、各章の扉にあるペンギンのイラストが可愛い。イラストレーターは誰だろうと思ったら、野矢氏自身とのこと。やるな。

 

 

 

島崎藤村『夜明け前』(kindle版)

少しこのブログの更新が途絶えていたのは、またLinuxの入門書や将棋の本など読んでいたこともあるが、この大作(文庫本で4巻)に取りかかっていたため。

かつて母方の親戚が名古屋で商売をやっており、市内の住居は店舗兼用で手狭ということで、恵那に週末用の別宅を構えていた。中学生の頃だったか、そこに遊びにいく話になり、近くの馬籠・妻籠といった観光名所を訪れる計画を立て、その予習?として、一家4人でこの作品を回し読みしたのだと思う。このあたりがいかにも教養主義的な家庭である。

2010年に何がキッカケだったのか家人が図書館で借りて読破していたのだが、先日、kindleで無料でダウンロードできることに気づき(青空文庫版)、私も40年近くぶりに読んでみた。

幕末~明治維新期が舞台であり、作品中で流れる時間が恐らく30年以上に渡っている点も大河ドラマ的ではあるのだけど、主要登場人物として登場するのは、この日本史上でも指折りの激動期において「脇役」だった存在ばかり。

それだけに、時代の変遷がいっそう身に迫る痛切なものとして訴えてくる。

これを読むと、主人公が追い求める本居宣長~平田篤胤あたりの国学や、それと合わせて神道にも興味をそそられるのだけど、一昨年あった親戚の葬儀も含めて、神道というのは世界観ではあっても宗教ではないのかなぁ、という漠然とした印象を抱く。少なくとも何らかの救済を与えるものであれば、この小説もこのような結末にはならなかっただろうに。

なお、いちおう下記のリンクはkindle版(青空文庫版)を貼っておくが、やはり通常の文庫で注がついている(と思う)ものを読む方がいいのではなかろうか。宿場・街道関係の知識についてはいろいろネットで調べられる時代だから大丈夫だし、和歌はよいのだけど、それなりの長さの漢文を読むのはなかなか苦労する。

 

三宅陽一郎『人工知能のための哲学塾』(ビー・エヌ・エヌ新社)

人工知能の研究や開発を通じて「知能(知性)とは何か」という問いに取り組んでいれば、必然的に哲学的な思索にはまり込んで行かざるをえないだろう、と思う。

この本にも、そういう切り込み方を期待したのだけど、やや物足りない印象。全6回のワークショップのまとめのような本だから、ダイジェストっぽくなってしまうのは仕方ないのかもしれない。恐らく、ワークショップの「現場」はもっと躍動感のあるものだったのだろう。

哲学というのは、私たちが日常を生きている足場を揺るがせるというか、見てはいけない深淵を覗き込ませるような部分があるものだが、この本にはあまりそういうヤバさ=魅力が感じられず、いいとこ取り的な扱いになっているのも、やや不満が残る。特に現象学の扱い方に何やらフワフワした曖昧な印象を感じてしまったのだが、現象学って本来はひどく厳密でギリギリまで追い詰める思索であるように思う(先に紹介した『フッサール 起源への哲学』が巧みに紹介しているように)。

ただ、その分、というべきか、難解そうな近現代の思想がわりと取っつきやすく感じられて「読んでみるか」「読み直さないと」と思えるのはありがたいのだが……。

 

 

奈佐原顕郎『入門者のLinux』(講談社ブルーバックス)

会社では翻訳以外にも「なんちゃってシステム/サーバ管理者」の役割を担っているのだけど、1人だと何かと問題があるので後継者を育てなければいけない、というのが前々からの課題。とはいえ、自分で1から教えていくのは大変だから、「ひとまずこれ読んでおいて」と言えるような本がないかなぁと最近探し始めた。

そのなかで目に止まった1冊が本書。そういう趣旨なので、書いてある内容のほとんどは私としてはすでに分っていることなのだけど、それでも、習うより慣れろというか場当たり的に身につけてきてしまった部分などで「あ、そういうことだったのね」と今さらのように確認できた部分もあった。

会社のサーバではCentOSやScientific LinuxといったRH系を使っているのに対して、この本はDebian系のUbuntuを手許のPCにインストールして個人的にいじるという構えなので、後継者養成という私の目的にはややズレているかなぁと思うけど、なかなか悪くない本であった。

本の評価とは関係のない、単なる冗談的要素でしかないのだけど、著者がラグビーファンであることをちらりと窺わせる一節があるのも嬉しかった。

 

岡嶋裕史『ブロックチェーン 相互不信が実現する新しいセキュリティ』(講談社ブルーバックス))

ようやく分った、と言える良書。

ビットコインを代表格とする暗号資産(a.k.a. 仮想通貨)の世界で、「マイナー」と呼ばれる連中が膨大なコンピューター資源(と膨大な電力)を使って何やら必死に計算しているというのは知っていたのだけど、私は実のところ、彼らが何を計算していて、なぜそれほど大変なのか、という肝心の部分を理解していなかった。

本書は、「まえがき」と「終章」を除くと5章構成なのだが、第1章は「なぜ社会現象になったのか」と題して、流出事件や投機ブームなど、ビットコインなどの暗号資産が社会的話題を集めた経緯を語るごく短いもの。

本体と呼ぶべき残り4章のうち、実に2章分は、ハッシュ関数/ハッシュ値の話(プラス、公開鍵・秘密鍵ペア方式などの暗号化の話も)。これが実に分かりやすい。何しろ、Windowsのコマンドプロンプトを開いて(※)、短い(1文字の)テキストファイルのハッシュ値を求めるところから始まる。

「ブロックチェーン」というシステムの実質について語られるのは、わずかに第4章だけなのだ(この章、ページ数はそれなりにあるが)。でも、それで十分なのである。「ああ、さっき書いてあったことね。だからなのね」で済んでしまう。

なぜなら、ブロックチェーンというのは別に単体として新しい技術ではなく、「一つ一つは簡素で枯れた技術だが、それを工芸品のように組合わせて織り上げた」(本書p234)システムだからだ。

それが分っていれば、何でもかんでもブロックチェーンが解決するなんて景気のいい話があるわけないよ、という説明も納得がいく。先にも書いた「膨大なコンピューター資源&膨大な電力を消費する」点も含めて、その有効な用途はかなり限定されるような印象を受ける。

以前読んだ野口悠紀雄『入門ビットコインとブロックチェーン』あたりを100回読むよりも、こちらを1回読む方がはるかに優る。

この著者の本は以前、同じブルーバックスで『セキュリティはなぜ破られるのか』を読んで、やはり非常に得心がいった覚えがある。彼の説明のしかたは私にとって馴染みやすいようだ。

※ この部分で「???」になる読者には本書もちょっと厳しいのかもしれない。まぁコマンドプロンプトの起動のしかたもいちおう書いてはあるが…。

 

斎藤美奈子『文章読本さん江』(ちくま文庫)

いやぁ、面白かった。

谷崎潤一郎に始まり、三島由紀夫、丸谷才一(以上『文章読本』)、さらには清水幾太郎(『論文の書き方』)や本多勝一(『日本語の作文技術』)、井上ひさし(『自家製・文章読本』)……などなど、枚挙に暇がない「よい文章を書くには」系の手引き書について、メタな視点から論じる本。

途中、著者ならでは(?)の諧謔というか、『文章読本』の教えをパロディにするような書き方がややしつこいというか食傷する感はあるのだが、気になるのはそれくらいか。

この本で何より面白いのは、『文章読本』の分析をいったん離れて、明治以来の「作文(綴り方)教育」を俯瞰する部分ではないか(もちろん最終的には『文章読本』の話に収束するのだが)。「一瓢を携へ」のあたりについクスクス笑って家人に訝られるほど面白い(実はそういう教育を受けたかったと思う変人である)。いや真面目な話、このところ議論を呼んでいる国語教育改革を考える前提としても、非常に参考になるように思う。

むろん、2000年代の本なのでインターネット時代の「文章」をめぐる考察は文庫版への追補程度であり、それも2007年なので、ブログどまりでSNSには至っていないのだけど、それは時代の制約ゆえしかたない。この本に書かれていることを敷衍しつつ、それぞれが考えるべきことなのだろう。

ちなみに私が中学生の頃に我が家でも『文章読本』ブームがあり(例によって「親の都合」なので理由は分らない。子ども=我々の教育のためだったのかもしれないが…)、本書で「御三家」とされている谷崎・三島・丸谷の『文章読本』はすべて読んだ(川端康成のもあったが、これは本書によれば川端本人が書いたものではない剽窃本らしい)。この本を読んでいるあいだに実家を訪れて書棚にそれらを発見したのだけど、改めて読み直そうという気には……ちょっとならなかったなぁ(笑)

 

福永武彦『完全犯罪 加田伶太郎全集』(創元推理文庫)

Twitter上でのひょんなやり取りから、これも確か中学生の頃に読んだのを懐かしく思い出し、図書館で借りてみた。

短編集なのだが、いくつかは犯人(というかトリック)を覚えていたな。

しかしこの作品集に限った話ではないのだが、どうもこの種の「本格派」とされる推理小説も、多くは、恐怖心や暗示など人間の心理を中心に、偶然の要素に依存しすぎのような気がする。

たとえば有名なクリスティの『そして誰もいなくなった』にしても、「たぶん○○はこう行動するはずだ」という犯人の読み(というより実際には願望に近い)どおりに他の登場人物が動くからこそ、あの奇妙な状況が実現するのであって、そのうち一人でも「いやいや、ここは一つ落ち着いて」と冷静になってしまったり、ふと気まぐれな行動を取ったりすれば、犯人の描いた図式はガラガラと崩れてしまいそうである。

将棋にココセという言葉がある。語源は「相手がこう指してくれたら、こうなって、こうなって、うまくいくのになぁ」という願望→「ここに指せ」という念→縮めて「ここせ」…ということらしい。用法としては「ココセみたいな手を指して負けちゃったよ」みたいな感じ。相手の注文にスポンとハマってしまったということか。

つまり推理小説においても、「ココセ」頼みで成立している「完全犯罪」がけっこう多いような気がする。犯人に「プランB」がないところが物足りない。

逆に、犯人が意図したとおりに状況が進めばわりと簡単な事件だったはずなのに、思わぬ予定変更を強いられたせいで却って迷宮入り、みたいな推理小説があれば読んでみたいのだが。

まぁ有名な古典的作品を昔いろいろ読んだわりには忘れているので、読み返せば感心するようなものもあるのだろうけど。