横溝正史『犬神家の一族』(角川文庫)kindle版

「なぜ急にこんな本を」と思われるかもしれないが、先日下諏訪を訪れた際にいろいろ調べていたら、諏訪湖(周辺)を舞台にした作品として挙げられていたので、「そうだったのか」とkindleで購入してみた。

市川崑監督の映画が1976年で、たぶんその頃に金田一耕助シリーズのブームが起きたのではないかと思う。映画を観たかどうか記憶が定かではないが、原作を読んだのは恐らくその後だろうから、たぶん40年ぶりに再読。横溝正史の作品は他に『八つ墓村』『本陣殺人事件』『蝶々殺人事件』(これは金田一耕助ではない)あたりを読んだはず。

当時は、けっこう本気で、不気味で恐いと感じたような記憶がある。

このような書き方から察していただけると思うが、何だか今回は全然恐くなかったのである(笑) 夜、就寝前に読んでも悪夢を見る気遣いはない。

いや、なんか、文体がね。さすがに今はこのジャンルにおいても、こういう文体・雰囲気の作品は成立しないだろうな、と思う。

紙芝居的というか講談調というか、キワモノの見世物というか、「さあさ、お立ち会い、寄ってらっしゃい見てらっしゃい」みたいな雰囲気といえばいいか。

リアリズム色がなく、もろにフィクションの人気シリーズという調子が前面に出ているし、「作者が読者に語る」という構図がはっきりしている。

たとえば主役の探偵である金田一耕助が登場するところで、

もし諸君が「本陣殺人事件」からはじまる金田一耕助の一連の探偵譚を読んでおられたら、この人物に関する説明は不用のはずである。(略)その推理の糸のみごとさは「本陣殺人事件」「獄門島」、さては「八つ墓村」の事件などで証明済みである。

などという「口上」がある(笑)

そもそも冒頭の章の末尾で、

いまにして思えば、この瞬間こそ、そののちに起った犬神家の、あの血みどろな事件の発端だったのである。

といった具合に、ある意味ネタバレしちゃっているし。

途中で2回、「言い忘れたが」というフレーズとともに邸宅の造りが説明されたりするのも、なかなか愉快だ。

何というか、純文学と大衆小説の区別がハッキリしていた時代だったのかなぁ、と感慨深い。

推理小説としての筋立てそのものは、なかなかよく出来ているように思う。もちろん、ご都合主義的な部分はけっこうあるように思うが。

諏訪湖(周辺)をめぐる描写はどうかというと、作中では「那須」「那須湖」という名称になっているのだけど(何も他に実在する地名を使わずとも、という気はする)、なるほど確かにこれは諏訪湖だな、と納得させる部分はある。作品の時代設定は終戦後数年といったところだろうが、「十二月もなかばを過ぎると、那須の湖は汀から凍りはじめる。スケートができるようになるには、ふつう年を越して、一月の中旬からだが」などという記述があり、なるほど地球温暖化が深刻になる前の描写だなぁと思わせる。

村上春樹『アンダーグラウンド』(講談社文庫)kindle版

単行本が発売された時に買い、読み始めたものの、内容のしんどさに途中で挫折し、その後文庫本でも買い、結局、しばらく前からkindle版で再読を開始し、時間はかかったものの読了した。

いろいろと思うところの多い本。

被害者の証言でわりと共通しているのが、苦しんでいる人が何人もいて、「何だかいつもと違うことが起きているな」と思うのに、自分自身の体調不良と関連付けるのに時間がかかっている、という点。このところよく言われるようになった「自分ごととして捉える」ことができるかどうか、という話なのだろうか。

あと、多くの人が、周囲で異常事態が発生していることを知り、自分自身の体調にも不審な点を感じているにもかかわらず、それでもとにかく職場に行こうとしている点も、けっこう共通している。

あたりまえの話だが、誰も携帯電話など持っていない(もちろん当時だって使っている人はいただろうが)。その後、テレビやラジオのニュースに接して、ようやく「事件」を知っている。

被害者以外にも、章の間に医師や弁護士の証言が挟まるのだが、たとえば、事件の一週間前に警察に対して「本当にオウムがサリンを撒く可能性がある」という警告があったにもかかわらず防止できなかった、という点に衝撃を受ける。

松本サリン事件を経験済みの信州大学医学部から都内の医療機関にサリン中毒への対応について助言が送られるのだが、当然ながら「ファックス」である。

事件当日の話だけではなく、証言者のプロフィールを紹介する部分で、たとえば事件当時60歳の人は、当たり前だが戦前の生まれなのだというあたりにも、軽くショックを受ける。

村上春樹がインタビューを行い、その証言テープ(もちろんテープだ)を元に書き起こされているので、文体は、その証言者の語り口が活かされているのだけど、唯一、アイルランド出身の元騎手・競馬学校講師(そんな人が事件に巻き込まれていたのだということも私は知らなかった)については、英語による証言を村上春樹が翻訳したのだろう、文体がいつもの春樹調で、何だか少し微笑ましい(内容はもちろん笑えないのだけど)。

とにかく、語るべき点の多い本。これは読み直すかもしれない。

時節柄、一カ所だけ引用。

私たちが得た大きな教訓は何かと言いますと、「何か大きなことが起ったとき、それぞれの現場は非常に敏速に対応するけれど、全体としてはだめだ」ということですね。こういう大きな災害が起ったときに、組織が効率よく速やかに対応するというシステムが、日本には存在しないのです。

 

『源氏物語(五)梅枝~若菜(下)』(岩波文庫)

ペースは遅いが読み続けている。

源氏が、「故院の上も、かく御心にはしろしめしてや、知らず顔をつくらせ給ひけむ」と思い至るところは、ここまで読んできたなかでクライマックスと言える箇所であるように思える。『失われた時を求めて』同様、長々と読んできて、やはり名作としみじみ思うようになりつつある。

 

川添愛『ふだん使いの言語学』(新潮選書)

これまた翻訳業界の人がTwitterで言及していたのが気になり、図書館で借りたのだが、「山の家」に移る前に返さなければならず、結局kindleで購入して読了。

使い慣れた言語(というか、まぁ母語)を使う際には、文法を特段意識することなく、実にいろいろなことを「これは自然、これは不自然」と判断しているのだなぁということがよく分かる。私自身はやらないのだけど、和英翻訳の場合はほぼ必ず英語のネイティブスピーカーにチェックを頼むのだけど、母語のレベルでこれだけ直感的に良し悪しが判断できるのだから、その分、母語でない言語に関しては難しいことになるのは当然だよな、という気がする。

読みやすい文章を書く助けにはならないが、読みにくい文章を書かないようにするには有益な本。

原田マハ『異邦人(いりびと)』(PHP文芸文庫)

以前から著者の名前はときおり目にしていたが、作品を読むのは初めて。

人気があるだけあって読ませる。他の本と平行して読んでいたので寝る前に一章ずつくらい読み進めていたのだが、中盤を越えてから我慢できず、電車通勤の日に持ち出して一気に読んでしまった。

そうしたストーリーテリングの巧みさと、わりと癖のある、親しくお付き合いしたいかと言われると必ずしもそうは言えないような登場人物を魅力的に描く力を感じる。

とはいえ、他の作品も次々に読んでいきたいかと言われると、そこまでではないかな…。まぁそう思わせる作家というのはほとんどいないのだけど。

この冬にはWOWOWでドラマ化されるとのこと。テレビドラマを観ることは皆無に等しいのだが、この作品については妙なご縁もあるようなので、ちょっと観てみようかと思っている。

 

高橋敏之『英語 最後の学習法ー英字新聞編集長が明かす「確実に効果の出る」メソッド』(ジャパンタイムズ出版)

ふと思い立って、このところTwitterで同業者のアカウントを積極的にフォローしているのだけど、たぶんその中で誰かが紹介していて気になった本。

私の英語の能力は「読む」方に突出していて(といっても特に読むのが速いわけではないので、やはり「翻訳」の能力と言うべきか)、書く聞く話すはかなりダメなので、もちろんこの本に忠実に勉強し直してもいいのだけど、とはいえ「読む」や文法に関しては問題ないので、かなり取捨選択が必要。

むしろ、フランス語の勉強に応用するという意味で有益な本だった。英語ほど学習用の素材は充実していないだろうが、方法としてはほとんど共通するはず。

もちろん、本書の本来の想定どおり、英語の勉強方法を模索している人には非常に有益な本だと思う。

 

岡嶋裕史『大学教授、発達障害の子を育てる』(光文社新書)

『セキュリティはなぜ破られるのか』『ブロックチェーン 相互不信が実現する新しいセキュリティ』『5G 大容量・低遅延・多接続のしくみ』(いずれもブルーバックス)と、IT系の著作をいくつか読んできて気に入っている著者。

本書はタイトルからするとまったく別の、著者にとっては畑違いであるはずの育児・障害児教育分野の本なのだけど、自閉症について考察・説明する場合でも、IT方面の著書で見られた巧みさが遺憾なく発揮されているところが面白い。発達障害の子について、「CPUの性能が悪いとは限らないが、ただしインプット/アウトプットといったユーザーインターフェースがうまく機能していないコンピューター(だからすごく扱いにくい)」という喩えは秀逸だと思う。

そして、知性のあり方というのは実に多様なのだなぁという思いを抱く。

 

奥泉光『東京自叙伝』(集英社文庫)

インパクトはあるし、決して平凡な小説ではないし、面白いのだけど、では人に勧めるかと言われると難しい作品。拒否感のある人は全然受け付けないのではないか。

東京の「地霊」が憑依した(というか、人格として表出した)6人の登場人物が、自分が「地霊」の顕在化であった時期について思い出を語るという体裁(後から調べたなどの形で、それ以外の時期について語られる部分もある)。

…と書いても何が何やら分からないだろう(笑) この書評は優れているが、本作を読んだ後だからそう思えるのであって、これだけ読んでも何を言っているのか分からないかもしれない。『福翁自伝』のパスティーシュであるという指摘は、なるほど。私は『福翁自伝』をたいへん面白く(エンターテイメントとして)読んだので、本作にもわりとすんなり入れたのかもしれない。

やや仕掛けに溺れているような印象であり、「あれは私だ」や複数の「私」が遭遇する場面は、途中までは「おおっ」と思わせるが、あまりにも多用されるのでやや食傷してくる。それにしても、そういう仕掛けにまで馴染んでしまい食傷などと言い出すのだから、読者の適応力というか消化力というのは、恐るべきものだなと我ながら思う。

…と書いても、伝わらないだろうと思う。読むしかない。が、読後感はあまりよろしくないだろう。「読後感が良くない」というのは、私にとってはその本をけなす理由にはあまりならないのだが、とはいえ、強いてお勧めはしない。

しかし、オリンピック開催が強行され、その結果次第によっては、これを読んでいるかどうかで、その状況の捉え方がけっこう変わってくるかもしれない。

新保信長『声が通らない』(文藝春秋)

図書館の新着書コーナーにあったので、つい手に取った。

かつて零細社会人劇団で活動していた頃、稽古後などにメンバーで飲みに行くと、注文の時に誰がいちばん店員さんを振り向かせるのが上手いかを競ったりしたものだった。この本でも語られているように、やたらに大声を張り上げるのではなく、狙いを定めて声を届けるのがコツだということは、そういう経験を通じて分かっているし、それができずに著者のような悲哀を味わったことはあまりない。

とはいえ、「通る声」を模索して専門家に取材したり諸々のボイストレーニングを試す著者の悪戦苦闘は、文章の巧みさもあって、とても面白く読める。

そして「声が通らない」とは少し違うのだが、私にも著者と同じ悩みが…。

「名前を聞き取ってもらえない」である。

私は電話でお店の予約を取るときなどは、家人の旧姓を借用してしまうことも結構ある。その場合は、漢字を間違われることはあっても、聞き取ってもらえないことは、まずない。

同じ姓ですごい有名人とか出てくれば楽になるんだろうけどなぁ。たとえば「羽生」は、聞き取ってもらえない場合でも「羽生結弦のはにゅうです」とか「羽生善治のはぶです」と言えば分かってもらえるだろう…。

シンジア・アルッザ 、ティティ・バタチャーリャ、ナンシー・フレイザー『99%のためのフェミニズム宣言』(惠愛由・訳、人文書院)

常々、フェミニズムというのはもちろん女性だけの運動ではないし、そもそも、フェミニズムによって男性もまた救われ解放される、という認識をもっている。したがって「99%のための」であれば当然自分もそこに入っているはずだよなと思って、この本を手に取った(社会階層的には十分に恵まれている方だと自覚はしているが、いくら何でも1%の側ということはあるまい)。

本書の「リベラル・フェミニズム」(リーン・イン・フェミニズム)への批判や、「多様性」がネオリベラリズムに利用されてしまう構図の指摘などは、たいへん刺激になるし、今後の思考や行動を変えていくキッカケになるような気がする。「飛び散った破片の片づけを圧倒的多数の人々に押しつけてまで、ガラスの天井を打ち破ろうとすることに興味はない」という比喩は秀逸。

そういった意味でも、まさに今読まれるべき本だとは思うのだけど、残念ながら、翻訳がよろしくない。訳者はまだ若い人なので、これからということなのだと思いたいが、う~ん。まぁ私の過去の翻訳にも、すべて回収して焼き捨てたいほど酷いミスがあったからなぁ…。いちばんガックリ来たのは、テーゼ10の末尾、原文 “Not in our name.” が「私たちの名を語るな」になっているのだけど、ここは「騙るな」だろう。ボールド表記で強調されている部分だけに、この誤変換はちと辛い…。もちろん、翻訳の点を割り引いても良い本だとは思うのだけど。

というわけで、こういう場合のお約束ということで、原書をkindleで購入してしまった。