2023年に読んだ本」タグアーカイブ

澤康臣『事実はどこにあるのか 民主主義を運営するためのニュースの見方』(幻冬舎新書)

この本の優れた点は、著者が相当に理想主義的であるところだ。本文中では、現実と理想の対比はさらりと触れられている程度だけど。

全体を貫いているのは、賢明な、いや正確には「賢明でありたいと願う」市民が、何らかの形で関与しつつ社会を運営していき(”This is what democracy looks like.”)そのために必要なリソース(の一部)をジャーナリズムが提供する、という理想主義的なビジョンだ。

もちろん、先日の統一地方選挙前半の低投票率にも象徴されるように、この社会のかなりの部分は、自分が「民主主義を運営する市民」であるとは露ほども考えていないだろうし、そもそも「市民」を罵倒語として使う連中すらいる。そういう人たちは決してこの本を(あるいはどの本も)手に取らないというのが現実だろう。

とはいえ、「現実は…だから」を根拠とする「現実主義」的な言動は、よく言えば冷笑的であり(よく言ってないね)、わるく言えば、というか実際にはその大半は欺瞞であると私は思っている。

その「現実」は、実際には特定の視点から恣意的に切り取られた一側面でしかなく(場合によっては一側面ですらなく)、しかも、そういう現実主義者にはその「現実」を主体的に変えていく意志も能力もまったく欠如しているのだから。

というわけで、できれば「現実主義者」に堕することを避けたいと願っている自分にとって、遠慮がちにではあれ理想の旗を掲げてくれている本書の著者は、だいじな一つの道標とでも言うべき存在である。

 

山岡洋一『翻訳とは何か 職業としての翻訳』(日外アソシエーツ)

翻訳の仕事に手を染め始めたばかりの頃に読んでいれば、と思わずにはいられない。2001年の刊なので、昨今のAI翻訳の発達についてはもちろん考察されていないのが今となっては物足りないのだけど、まだ自分の翻訳スタイルが確立していない頃の人が読めば非常に刺激になるのではないかと思う。

たとえば「『直訳』も『意訳』も、もっぱらそれを非難する文脈で使われる」という指摘なんかは、なるほどと膝を打つ思いである。

ポー『モルグ街の殺人』の一節の訳を三通り紹介しているのだが、最も古い森鴎外の訳が最もこなれているように感じるというのも面白い。

版元品切れになっているようで図書館で借りたのだが、これは古書店で見つけたら迷わず購入する。

英語(外国語)→日本語への翻訳に偏った内容になっているけど、そもそも、ある言語への翻訳はその言語を母語とする者がやるべき、という原則に立っているので、それは当然かもしれない。もっとも実際には、和→英の翻訳は、日本人がやって英語のネイティブスピーカーに校閲をお願いするというパターンが多い。そういった仕事が多い家人に言わせれば、「そもそも日本人でさえ解釈に困るような日本語が多いから、やむをえない」と…。

 

佐藤さとる『コロボックルむかしむかし』(講談社文庫)

というわけで、佐藤さとるの手になる本シリーズもこれが最後。

「せいたかさん」が「小さな国」を見出すより前、人間で言えば、記紀時代から江戸時代くらいまでを描く昔話集。コロボックルの創世神話に始まり、人間と深く関わることを避けるようになった事情を示唆する残念な逸話がある一方で、人間との親密な関係を物語るエピソードもある。人間の側の有名な昔話のコロボックル版といった趣向もある。

その中で印象的なのが、伝説的な名工・左甚五郎と一人のコロボックルの友情を描いた作品「ふたりの名人」。作者の佐藤さとるは、簡単に言ってしまえば性善説というか、いやむしろ「世界は根本的には善きものであってほしい」「ひとはこうであってほしい」という願いを込めてこのシリーズを書いているように思うのだが、それがよく現れているのが、この作品の脇役として出てくる「宿屋の主人」。ジンゴ(後の左甚五郎)が作ったカラクリ細工を買い取って宿賃をタダにしてくれただけでもずいぶん親切だと思うのだが、後にそのカラクリ細工が高額で売れたからと言って、その一部(といっても大金)をジンゴに届けに来る。ジンゴは「あれはあなたのものになったのだから」と受け取ろうとしない。人間はそのように親切で無欲であってほしい、という作者の思いが表われているように思うのだ。

せっかくなので比較しておくと、いぬいとみこの「小人たち」両作では、世界には根本的に邪悪な存在があり、人間は(小人たちよりは強いとはいえ)弱く愚かなものとして描かれているように思う。ただし、その弱さや愚かさには、勇敢さや悔い改め、救済の希望が対置されているのだが。

「あとがき」で、前作『小さな国のつづきの話』を書くにあたって頭を悩ませた点(先の感想で触れた、1~4作目を実在させてしまうことなど)が詳しく語られているのも興味深い。この文庫化されたシリーズでは、どれも「あとがき」と「解説」が実によいのだ。

有川浩に引き継がれた新作を読むかどうかは迷い中。

 

佐藤さとる『小さな国のつづきの話』(講談社文庫)

子どもの頃に読んだのは4作目までなのだが、やはり「つづき」も読んでみる。

作者が「あなたが信じるかどうかはさておき、これは本当の話なのだ」というスタンスに徹するところに驚く。本当の話なのだから、「作者」自身も実在する。佐藤さとると名乗りはしないものの、「せいたかさん」とどういう関係であるかも明かされる。何しろ、この5作目では、それまでの1~4作目が実際に本として出版されており、主人公が働く図書館に配架されているのだ。つまり、私たちが『だれも知らない小さな国』以下の作品を読んだこの世界と作中の世界は、そのまま地続き、同じ世界なのである。

以前、映画『シン・ゴジラ』を観たときに、登場人物の誰もが『ゴジラ』という映画を知らないことに猛烈に違和感を覚えたのを思い出す。実際に私たちが生きているこの世界には、かつて『ゴジラ』という映画が存在したのだし、私たちはそれを観ているのだから、『ゴジラ』という映画が存在しなかったかのように描かれる『シン・ゴジラ』は、虚構であることを大前提とした娯楽作品の枠から一歩も踏み出さない、いわば消毒済みの無害な作品なのだ。

佐藤さとるのスタンスは逆である。あの1~4作目の「本」は実在する。物語の中でも実在する。つまり、(いろいろ情報を伏せている部分はあるとはいえ)コロボックルも実在する。何のためにこのシリーズが書かれたのかという理由も、実に整合的に説明される。

そして、この第5作目の優れているところは、たとえ「小さな国」(恐らく作者の出身地である三浦半島と推測される)とは離れた場所に住んでいる読者にとっても、ひょっとしたら自分の身近にもコロボックルのような小人がいるのではないか、と期待を持たせる展開になっている点だ。

とにかく、伏線の張りかた、回収のしかたが実に緻密である。子どもの頃読んだときには、そんなことには気づきもしなかった。

なお、第3作『星からおちた小さな人』の感想で、いずれおチャ公とおチャメさんが結ばれるような未来があればいいな、と書いたのだが、残念ながら、そういう展開にはならなかったようである。

 

 

 

 

いぬいとみこ『くらやみの谷の小人たち』(福音館文庫)

さすがに、続編も読まざるをえない。

しかし、2004年に再読したときもそうだったのだけど、やはり1作目の方が優れているように感じる。

「人間」側の社会/世界が抱える問題への言及や示唆が、あまりにも作為的に突っ込んだという印象なのだ。私自身としては、そうした問題に対する姿勢という点では作者に十分に共感し、同じ立場を取るとまでいってもいいのだが、それでも、物語の作りとしては、教訓臭めいたものさえ感じてしまう。

ファンタジーという面でも、ややご都合主義的な展開が気になる。たとえば、人間である「純」の背丈が小人たち並みに小さくなって「くらやみの谷」に入り込んでいくといった点。

今回の再々読での収穫は、登場人物の中で、1作目も2作目も脇役なのだが、「信」にけっこう感情移入できるというか、彼の心情に思いを致してしまうなぁという発見があったこと。

 

いぬいとみこ『木かげの家の小人たち』(福音館文庫)

佐藤さとる『ふしぎな目をした男の子』の執筆動機に「乾富子」という編集者が絡んでいたと知れば、これを読まずにはいられないではないか。

ところで、家人と出会ったのは会社の同僚としてなのだが、親しくなったキッカケは、2人とも酒飲みだったということの他に、本が好きだったという要素が非常に大きい。付き合い始める前から、飲み友だちとしてあちこち飲みに行っては、結局は本の話ばかりしていたように思う。

その最初の頃、会社の近所にあったハワイイ料理の店(移転したようだ)に2人で飲みに行き、子どもの頃読んだ本の話になって、共通する記憶としてこの作品の名前が挙がったことをよく覚えている。ちなみにそのとき、いい感じで飲んでいたら、店の人から「これから来店する客にその席を譲ってくれ」と頼まれた。ちょいと理不尽な話だが、聞けば、何と元横綱・武蔵丸関だという(前年に引退していた)。店内を見渡すに、なるほど、あの体格で座れそうな席は、我々がいた角のソファしかなかった。我々はもちろん快諾して、別の狭いテーブルへと移動した。そんなわけで、私の中では、この作品は武蔵丸関の名と分かちがたく結びついている。

それを機に買い直して子どもの時以来に再読したのが20年近く前。今回、久しぶりに再々読。

佐藤さとるのコロボックルシリーズに比べて社会派リアリズムの色が濃いというか、身も蓋もない言い方をすれば「暗い話」という印象があったのだけど、改めて読んでみて、ずいぶん最初から戦時下の話になっているのだなぁと驚いた。主人公ゆりの父親は英文学者、兄は親に反対されつつ幼年学校への進学を望んでいるといったあたり、何だか私の父の境遇と似ている(祖父は英文学者、伯父は幼年学校に進んだ)。祖父が要注意人物として投獄されたことはないはずだが、英語のできる者として軍への協力を求められてもノラリクラリと逃げたという話は聞いたような気がする。

主人公ゆりの人間的な弱さが描かれるのが印象的。身体的な虚弱さではなく、疎開先の家族や小人たちに持ち帰ろうとしていたお土産を、つい誘惑に駆られて食べてしまうとか、小人たちに分けるべきミルクを我慢できずに飲んでしまうとか、人間としてごく当たり前の、意志や性格の弱さ。そして当然ながら後で自責の念に駆られる様子が切ない。

もちろん戦争はやがて終わり、主人公も無事に(疎開前よりもむしろ丈夫な身体になって)両親のもとに帰れるのだけど、物語の終わり方はハッピーエンドではない。

続編はあまり好きではなかったのだけど、やはり続けて読まずにはいられないなぁ。

佐藤さとる『ふしぎな目をした男の子』(講談社文庫)

というわけで、子どもの頃に読んだ同シリーズは、ここまで。

前作『星からおちた小さな人』の感想で書いた「コロボックルと人間のバランス」という意味では、この第4作は、人間寄りに偏っているという印象。そして、その割に「せいたかさん」一家がまったく登場しないというところが寂しくもある。

しかし何より驚いてしまうのは、「あとがき(4)」で明かされる、この作品の執筆に至った経緯である。岩波書店の「乾富子」という編集者の注文で書いた、というのだ。そんなことを明らかにされては、このシリーズの残り2作(『小さな国のつづきの話』『コロボックルむかしむかし』)より先に、ひとまず、あの作品を読まざるをえないではないか。

それにしても、幸せなライバル関係というか、同じ時期にその二人が活動していたことの巡り合わせのようなものを感じてしまうなぁ。

佐藤さとる『星からおちた小さな人』(講談社文庫)

4作目の『ふしぎな目をした男の子』もすでに読了したのだけど、今の年齢で読むと、最初の『だれも知らない小さな国』と、この3作目が特に優れているように思う。その理由は、恐らく、コロボックルの世界と人間の世界のバランスの取り方がうまいから。

この作品でも、人間側の主人公である「おチャ公」はもちろんだが、中学生になった「エクぼう」がいい味を出しているし、もちろん「おチャメさん」の活躍も素晴らしい。何でもかんでもボーイ・ミーツ・ガールに帰着させるのはむしろ無粋だが、コロボックルと「ともだち」になったおチャ公と、コロボックルの「味方」に内定しているおチャメさんが、いずれ結ばれるような未来があればいいな、などとも思う。

ところで、「つかまったときは世界でただ一人の存在になれ」という掟とか、(第1作から続くことだが)じっくりと観察して相手側で協力者になってくれる人を探すとかって、諜報機関をはじめ「組織」の遣り口であるように思う。執筆当時の社会情勢のもとでは、そういう発想もわりと身近だったのかもしれないが、作者の思いとしては、そうやって潜入&工作をしてくる「組織」が、こんな魅力的なコロボックルたちであればいいのに、ということなのかもしれない。

ジェフリー・ディーヴァー『コフィン・ダンサー(上)(下)』(池田真紀子・訳、文春文庫)

「リンカーン・ライム」シリーズ2作目。

前作『ボーン・コレクター』の感想で書いたように、殺害方法が陰惨で猟奇的なので、シリーズを読み進めるのはやめようかなぁと思っていたのだが、つい手を出してしまった。

軸になるのが鑑識というマニアックな分野なので、その分、前作を読んでいることは大きなアドバンテージになり、すいすい読み進められる感じ。登場人物もおなじみの顔ぶれが多いし。この作品ではそれに加えて航空関係の蘊蓄もけっこう出てきて、なかなか新しい世界が開けている。

が、肝心のプロットに関しては、矛盾とまでは言わないまでも、「ちょっとそれはさすがに無理なんじゃないの」という印象を受けた。容疑者から命を狙われる可能性がきわめて高く、しかもいったんは警察の保護下に入った重要な証人(と思われる人物)から警察が簡単に目を離してしまうことは考えにくいし、その人物が改めて警察の保護下に戻った経緯も描かれていない(どうせすぐ戻ってくるだろうという希望は語られるが)。その空白の時間のあいだに、それほどのことができたとも考えにくい。その意味で、この手の作品としてはちょっと欠陥があるのではないかと思う。

とはいえ、せっかくこの世界に馴染みができたので、これに続くシリーズ作品も読んでしまうような予感があるのだけど。

 

 

佐藤さとる『豆つぶほどの小さないぬ』(講談社文庫)

続いてシリーズ第2作。

語り手がコロボックルの若者に代わり、「せいたかさん」「(おちび先生改め)ママ先生」「えくぼう」など人間も出てくるが、基本的にはコロボックルのコミュニティ内の話。

その分、正統派ファンタジーではあるのだろうが、やや子供向けというか、物足りない感じはする。しかし「あとがき」によれば、作者自身が本来書きたかったのはこういう作品で、ただ、いきなりコロボックルを登場させても「不自然でおさまりが悪い」ので、しかたなく(?)先行する物語として第1作を書いたのだという。

もっとも、「理屈抜きの面白い小人物語」(あとがき)とはいえ、そこかしこに「作中の時代を証言する」(同)部分があって興味深い。特に、沖縄民謡とご縁のできた身として印象的だったのが、南米(本作ではブラジル)への移民とその子孫(つまり今で言う日系ブラジル人だ)の話。「親たちは、日本からの手紙を、とてもとても喜びます。(略)できましたら、お写真も、送ってください」というところに胸を打たれる。