2020年に読んだ本」タグアーカイブ

前野ウルド浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』(光文社新書)

新型コロナによるパンデミックも大変だが、むしろ深刻なのはバッタの大量発生(蝗害)のほうかもしれない。中国がバッタ禍に備えてアヒルの大部隊を用意しているなんてちょっと面白いニュースもあったが(真実かどうかは不明)、どうもアフリカ~西アジアだけではなく、南北アメリカ大陸でも大量発生が見られるようだ。

で、そういえばこんな本が家にあったなと思って読んでみた。

『ファーブル昆虫記』に憧れて昆虫学者をめざす30代前半のポスドク研究者である著者が、無職無収入の恐怖に脅えつつ、単身アフリカに渡って蝗害の主力となるサバクトビバッタを研究するフィールドワークに身を投じる話。

この本を読めば今般のバッタ禍をより良く理解するための知識が得られるかというと、そういうわけでもない(それでもさすがに孤独相・群生相なんて言葉には馴染んでくる)。むしろ、現代において夢を追う若者の奮闘記という印象。その意味では少し肩透かしを食らった感はあるが、とはいえ、話は面白いし、「聖地訪問」のくだりにはなかなか涙を誘われた。

こういう本を読むと、そういえば自分は夢を追う人生を歩んではこなかったなぁ、としみじみ思ってしまう…。まぁそのときどきに興味のあるものを楽しんできただけなのだよね。それはそれで幸せだし楽しくはあるのだけど。

 

斎藤健『増補・転落の歴史に何を見るか』(ちくま文庫)

最近著者に会ったらしい上司が読んでくれと頼むので、読む。

前半、日露戦争からノモンハン事件に至る転落(と著者は言う)の歴史を分析していくところはなかなか面白いのだけど、後半の、現代日本のための処方箋の部分があまりにも陳腐で、どうしたものかという感じ。

「政」「官」のバランスを考えるのは官僚から政治家に転じた著者としては自然な流れなのかもしれないけど、国や社会のうち、その部分を弄ることでどうにかなる部分は思ったより小さいという点には思い至らないのだろう。結局のところ、「公」(public)がどのように構築されているか(あるいはそもそも存在しているのか)という点が決定的に大きいと思うのだが。

よく勉強するし分析もできるけど、そこから説得力ある結論や新味のある展望を導く能力に欠ける原因を、受験エリートとして歩んできた生い立ちに求めるのは偏見かもしれないけど、実際、そうなるよなぁという思いはある。

 

 

内田樹『寝ながら学べる構造主義』(文春新書kindle版)

「おうちでハードカバー」とはいえ、外出するときに読んでいた本もある。

この本は、だいぶ前に紙の本で読んでいたのだけど、人に貸して戻ってこなくなってしまった。kindle版が出ていたので読み直す。

「ポスト構造主義期」というのは、構造主義の思考方法があまりに深く私たちのものの考え方に浸透してしまったために、あらためて構造主義者の書物を読んだり、その思想を勉強したりしなくても、その発想方法そのものが私たちにとって「自明なもの」になってしまった時代(そして、いささか気ぜわしい人たちが「構造主義の終焉」を語り始めた時代)だというふうに私は考えています(第1章1)。

という著者の指摘は的確であって、私自身がそうした発想をすでにかなりの程度「自明なもの」と見なしているせいか、この本に書かれている内容は実にすらすらと頭に入っていくる。たぶん最初に読んだ頃(たぶん2000年代前半)よりも、さらにその傾向は強まっているのだろうと思う。

その意味で、この本は知的な興奮を与えるというよりは、現実的に「使える」ものに近づいているような気がする。哲学への入門という意味でも、このへんから始めるのがけっこう面白いかもしれない。

 

冷泉為人『円山応挙論』(思文閣出版)

ステイホームの流れを機に「おうちでハードカバーを」第二弾。1月には縁あって著者と同席する機会があったのに、この本を(すでに手許にあったのに)まだ読んでおらず感想をお伝えできなかった後悔もあり…。

さて、何年か前に「若冲展」が人気を呼び大混雑したようだけど、円山応挙も伊藤若冲とほぼ同時代に京都で活躍した大家とのこと。

「とのこと」というのも、私自身はこの分野にはまったくもって疎く、若冲も別に観に行こうという気にもならなかったし(そもそも行列するような展覧会は子どもの頃から大嫌いである)、せいぜい寺などの名所を訪れたときに襖絵などの作品があれば、そういうものかと思って眺めるくらい。

しかしこういう、いわば自分にとってまったくアウェイである分野の話を、分からないなりに淡々と読み続けるのは、恐らく他の人と比べて相対的には苦手ではない。もちろん好きとまでは言えないけど、自分が知らなかった世界が開けてくる楽しさがあるような気がする。

この本でも、見たことのない作品について縷々語られているわけで、図版が載っているものはそれを眺めながら「こういう絵か」と思いながら読めばいいのだが、ものによっては図版がない。図版があるものも、硬派な研究書ゆえ、モノクロだから色は分からない。もっとも有難いことに、きょうびはインターネットで作品名と作者を検索すれば、けっこうな確率で画像を見つけることができる。タブレットやPCを頼りにこういう本を読むというのも奇妙な話だが…。

完全な書き下ろしではなく、美術専門誌などに掲載された論文の集成という成り立ちなので、変奏曲のように画題別に(松、鶴、孔雀、鴨、流水、人物などなど)同じテーマが繰り返される感があり、著者の「応挙論」を丁寧に刷り込まれる印象である。

別に、この本を読んでこれまで自分が抱いていた応挙作品に対する印象が一変するとか、そういう話ではないのだけど(何しろ意識的に応挙の作品を観たことすらないのだから)、いずれ何か応挙の作品を目にする機会があったときに「ああ、これだったのか」と膝を打つのはもちろん、そういう明白に意識的な体験につながらずとも、こういう読書というのは、何かしら、ものを見る目や考え方に深い部分で微かな変化をもたらしているのだ。

 

小熊英二『<日本人>の境界』(新曜社)

先にも書いたが、これまで他にたいしたことができない通勤電車内の短い時間を利用して集中的に読書する習慣がついていたせいで、新型コロナウイルスの関係で在宅勤務&自転車通勤が中心になったことで、読書量が激減した。これはいかんと思っていたのだが、ふと、これまではそうした読書環境だったために、持ち歩きに便利な文庫・新書、あるいは電子書籍がメインになっていたのだけど、こういう状況の今こそ、嵩張るゆえに放置してあった大部のハードカバーを読むべきではないか、と思い至る。

というわけで、ずいぶん前に購入していたのに読んでいなかった本書を手に取る。電子化されないかなぁ、されたら読むのになぁ、と思っていた本だ。

ネット上では、あまり質の高くない右派の人々のあいだで、大日本帝国による朝鮮・台湾の支配について「あれは植民地ではなかった」というような主張が見られるものだが、この本を読むと、なるほど当時の日本の支配層のなかでは、朝鮮・台湾を植民地として考えない風潮がかなりの程度あったことは分かる。少なくとも、イギリスにとってのインド、フランスにとってのインドシナ、あるいはオランダにとってのインドネシアなどと同じような意味での植民地ではなさそうだ。

では何だったのかというと、これが大変に面妖であり、とにかくご都合主義というか場当たり的というか、一貫性がない。そこから見えてくる日本の姿は、帝国主義という剣呑邪悪なイメージよりも、むしろ憐れみを誘うほどにいじましく情けない、卑怯で姑息なものだ。

むろん、だからといって被支配側である朝鮮・台湾、あるいはもう少し遡ってアイヌ、沖縄の人々にとって、そのような支配が受け入れやすくなるはずもなく、首尾一貫しない「小物」の征服者による支配は、却って始末に負えない代物だったように見える。

そして、ひとまず日本の敗戦により、朝鮮・台湾に対するそのような支配は結末を迎えるのだが、沖縄に関してはそれが戦後も、そして今日に至るまで続いている(本書の第四部は戦後の状況を扱っているのだが、そこではアイヌに関してはほとんど言及されていない)。ということはつまり、本書が提示している「境界の設定によって包摂と排除が同時に生まれる」というのは、特に琉球民謡をやっている自分のような人間にとっては、まさにリアルタイムに突きつけられている問題だということになる。

大日本帝国がどう振る舞えば周辺地域の人々も含めて多くの人が史実のような悲劇を避けられたのかというのは、すでに歴史上の「たられば」にしかならないが、それも含めて、考えるべきことは実に多い。

 

川端裕人『エピデミック』(ブックウォーカー、kindle版)

時節柄、カミュ『ペスト』を再読しても良かったのだが、せっかくなので(?)未読のこれを読んでみようと。

関東のある地方都市で起きた、劇症肺炎を伴う感染症の発生と、その拡大を食い止めるために奮闘する疫学調査員や研究者、現場の医師・看護師、保健所職員を描く作品。

感染症のアウトブレークをリアルタイムの現実として生きている昨今、小説として「面白く」するための演出(怪しい研究所、謎の少年たち…)は不自然に感じられてしまうが、こうした状況で読むのでなければ、もっとドキドキできたのかもしれない。もっとも、今般のCOVID-19にしても、研究所からのウィルス漏出の可能性を云々する連中はいるのだから、現実も小説も大差ないとも言える。

この作品は感染源(「元栓」)や原因ウィルスを特定するのに四苦八苦する話なので、その段階がほぼ終ってから感染拡大のフェーズに入っている昨今の状況とはだいぶ違うが、それでも「疫学」という考え方の一端に触れることはできる。

謝辞には、いままさに渦中の人である西浦氏の名も見える。

特に予備知識なしに読み始めたのだが、読み進めるうちに「あれ、この場所って…」と思い始める。感染の発生地・中心地として舞台になっているのは、子どもの頃、毎年のように夏休みに家族で訪れていた場所だった(県・市までは恐らく特定容易だが、地区の名前はさすがに変えてある)。風景描写が懐かしくもあり、フィクションとはいえ悲惨な状況となっているのが辛くもあり。

アントニオ・タブッキ『島とクジラと女をめぐる断片』(須賀敦子・訳、河出文庫)

今年1月に京都「つるかめ書房」を訪れた際に買った4冊のうちの1冊。ようやく読んだ。

クジラとあるからにはもちろんメルヴィル『白鯨』とも重なる部分があるし、思いもかけず、『失われた時を求めて』との繋がりもあった(堀江敏幸の解説では言及されているが、訳者あとがきでは触れていない)。

ついでに言えば、同じときに買った星野道夫『旅をする木』や、その繋がりで(「島」だからという理由も大きそうだが)池澤夏樹にも重なってくる気がする。この作家(訳者も)の作品を読むのは初めてなので、どういう作風かもまったく知らなかったのだけど、何となく、そういう「匂い」がして、手に取ることになったのかもしれない。

 

 

サン=テグジュペリ『人間の土地』(堀口大學・訳、新潮文庫)

だいぶ前に買ったはずだが会社に置きっぱなしになっていたのが目についたので、持ち帰り、読む。

美しく、人間への愛情に溢れた作品。どこかで聞いたことのあるようなフレーズは、そうか、これが出典だったのか、みたいなのもちらほら(「愛するということは、お互いに顔を見あうことではなくて、一緒に同じ方向を見ることだと」本書p216)。

若いうちに読んでおくほうが良かったかもしれないが、私の年齢で読んでも得るものは大きいように思う。

堀口大學訳はさすがに古めかしくて、これを読み切れない人は今どき大勢いるに違いない。とはいえ、恐らく原文もかなり詩的なものと想像されるので、詩の翻訳で名を馳せた人の訳というのは、ふさわしいのかもしれない。そもそも戦前の人の文章なのだ。新訳であまり読みやすくなってしまい、逆に時代的な距離感がなくなってしまうのも心配である。

とはいえ、さすがにね…。個人的には池澤夏樹に訳してもらいたい感じだ。光文社古典新訳文庫の渋谷豊・訳はなかなか悪くないようだ。ひとまず読んでみたいという人は、そちらで読む方がいいのではないか。

ただこの新潮文庫版は、表紙と巻末の地図、それに解説を宮崎駿が担当している。彼のファンは敢えてこちらを選んでもいいのかもしれない。

大森荘蔵『流れとよどみー哲学断章』(産業図書)

狸サイクルの遠山さんに勧められて読んでみた。

そうそう、哲学で一番面白いのは、こういう話だ。

最も簡潔な形では、「私は○○を見ている」というのはどういうことか、という問いから出発する問題、と言えるだろうか。

認識論。

これを問うことなしには、いかなる科学も真理も成り立ちはしないのだ。

そしてこの著者のもとでは、それは存在論にもつながっていく(「存在する」という概念の拡張)。

大部分は「朝日ジャーナル」に連載されたものということだが、いやはや、レベルの高い雑誌だったのだなぁ(大学生の頃は毎週買っていたけど)。

大学時代はこの著者にはまったく縁がなかったのだけど、気がつくと文庫本で2冊著書を持っている(1冊は坂本龍一との対談)。読んでみるかな。

葉室麟『影ぞ恋しき』(文春e-book、kindle版)

三月中にとっくに読み終わっていたのだが、時節柄いろいろ忙しく、アップが遅れた。

蔵人・咲弥夫妻もの第三弾にして、最後の作品。

先にも書いたように、この作品は新聞連載で読んだのだが、改めて読み返してみると、前二作のエピソードへの言及がずいぶんある。連載中には、前二作を読んでいないことをさほどハンデにも感じずに楽しめていたのだけど、こうして読むと、これにて完結という趣がある。

もちろんそれは、この作品の連載を終えて作者が急逝してしまったのを知っているゆえの先入観からかもしれない。作者としてはまだこの流れで後日譚を書きたかったのかもしれず。