冷泉為人『円山応挙論』(思文閣出版)

ステイホームの流れを機に「おうちでハードカバーを」第二弾。1月には縁あって著者と同席する機会があったのに、この本を(すでに手許にあったのに)まだ読んでおらず感想をお伝えできなかった後悔もあり…。

さて、何年か前に「若冲展」が人気を呼び大混雑したようだけど、円山応挙も伊藤若冲とほぼ同時代に京都で活躍した大家とのこと。

「とのこと」というのも、私自身はこの分野にはまったくもって疎く、若冲も別に観に行こうという気にもならなかったし(そもそも行列するような展覧会は子どもの頃から大嫌いである)、せいぜい寺などの名所を訪れたときに襖絵などの作品があれば、そういうものかと思って眺めるくらい。

しかしこういう、いわば自分にとってまったくアウェイである分野の話を、分からないなりに淡々と読み続けるのは、恐らく他の人と比べて相対的には苦手ではない。もちろん好きとまでは言えないけど、自分が知らなかった世界が開けてくる楽しさがあるような気がする。

この本でも、見たことのない作品について縷々語られているわけで、図版が載っているものはそれを眺めながら「こういう絵か」と思いながら読めばいいのだが、ものによっては図版がない。図版があるものも、硬派な研究書ゆえ、モノクロだから色は分からない。もっとも有難いことに、きょうびはインターネットで作品名と作者を検索すれば、けっこうな確率で画像を見つけることができる。タブレットやPCを頼りにこういう本を読むというのも奇妙な話だが…。

完全な書き下ろしではなく、美術専門誌などに掲載された論文の集成という成り立ちなので、変奏曲のように画題別に(松、鶴、孔雀、鴨、流水、人物などなど)同じテーマが繰り返される感があり、著者の「応挙論」を丁寧に刷り込まれる印象である。

別に、この本を読んでこれまで自分が抱いていた応挙作品に対する印象が一変するとか、そういう話ではないのだけど(何しろ意識的に応挙の作品を観たことすらないのだから)、いずれ何か応挙の作品を目にする機会があったときに「ああ、これだったのか」と膝を打つのはもちろん、そういう明白に意識的な体験につながらずとも、こういう読書というのは、何かしら、ものを見る目や考え方に深い部分で微かな変化をもたらしているのだ。

 

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