小熊英二『<日本人>の境界』(新曜社)

先にも書いたが、これまで他にたいしたことができない通勤電車内の短い時間を利用して集中的に読書する習慣がついていたせいで、新型コロナウイルスの関係で在宅勤務&自転車通勤が中心になったことで、読書量が激減した。これはいかんと思っていたのだが、ふと、これまではそうした読書環境だったために、持ち歩きに便利な文庫・新書、あるいは電子書籍がメインになっていたのだけど、こういう状況の今こそ、嵩張るゆえに放置してあった大部のハードカバーを読むべきではないか、と思い至る。

というわけで、ずいぶん前に購入していたのに読んでいなかった本書を手に取る。電子化されないかなぁ、されたら読むのになぁ、と思っていた本だ。

ネット上では、あまり質の高くない右派の人々のあいだで、大日本帝国による朝鮮・台湾の支配について「あれは植民地ではなかった」というような主張が見られるものだが、この本を読むと、なるほど当時の日本の支配層のなかでは、朝鮮・台湾を植民地として考えない風潮がかなりの程度あったことは分かる。少なくとも、イギリスにとってのインド、フランスにとってのインドシナ、あるいはオランダにとってのインドネシアなどと同じような意味での植民地ではなさそうだ。

では何だったのかというと、これが大変に面妖であり、とにかくご都合主義というか場当たり的というか、一貫性がない。そこから見えてくる日本の姿は、帝国主義という剣呑邪悪なイメージよりも、むしろ憐れみを誘うほどにいじましく情けない、卑怯で姑息なものだ。

むろん、だからといって被支配側である朝鮮・台湾、あるいはもう少し遡ってアイヌ、沖縄の人々にとって、そのような支配が受け入れやすくなるはずもなく、首尾一貫しない「小物」の征服者による支配は、却って始末に負えない代物だったように見える。

そして、ひとまず日本の敗戦により、朝鮮・台湾に対するそのような支配は結末を迎えるのだが、沖縄に関してはそれが戦後も、そして今日に至るまで続いている(本書の第四部は戦後の状況を扱っているのだが、そこではアイヌに関してはほとんど言及されていない)。ということはつまり、本書が提示している「境界の設定によって包摂と排除が同時に生まれる」というのは、特に琉球民謡をやっている自分のような人間にとっては、まさにリアルタイムに突きつけられている問題だということになる。

大日本帝国がどう振る舞えば周辺地域の人々も含めて多くの人が史実のような悲劇を避けられたのかというのは、すでに歴史上の「たられば」にしかならないが、それも含めて、考えるべきことは実に多い。

 

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