2019年に読んだ本」タグアーカイブ

佐藤勝彦監修『「量子論」を楽しむ本』(PHP文庫)

『~宇宙の話』シリーズの佐藤勝彦さんが書く量子論の本ならさぞかし面白かろうと思って借りてみたのだけど、よく見たら、「監修」という位置づけだった。そして、実際の執筆者は明示されていない?(探し方が甘いだけかも)

とはいえ、それにもかかわらず、「さすが佐藤勝彦」(実際には違うにせよ・笑)と思わせる卓抜な説明が随所にあって、面白い。観測した瞬間に位置が定まるというのを「だるまさんがころんだ」に喩えるとか、観測という行為そのものが対象に影響を与えてしまうというのを、小さな水滴の水温を普通サイズの温度計で測る行為に喩えるとか。

ただ、こういう本の常で、数式や理論的な説明は極力排するというスタイルなのだけど、もう少し難解になってもいいから、もう少し入れてもいいんじゃないかな、という気もする。

 

吉賀憲夫・編『ウェールズを知るための60章(エリア・スタディーズ)』(明石書店)

図書館で本を借りるときは、たいていは何かで知った本をネットで予約して近所の図書館で受け取るのだけど、それ以外にも、「新着図書」の棚で目についた本をつい借りてしまうことも多い。今年8月に出たばかりの本書も、当然ながら借りてしまう。

さまざまなテーマについての60章立て、面白く読ませるというよりは教科書的な記述も多いので、さすがに退屈する部分もあるのだけど、何と言ってもラグビーその他のご縁で興味深い地域なので、完読。「ウェールズは唄の国」とされる経緯や、言語を中心とする伝統が破壊&再創造される過程はとても印象に残る。

ラグビーへの言及は1章のみ。やや物足りない(笑)

 

高松晃子『スコットランド 旅する人々と音楽』(音楽之友社)

家人がスコットランド音楽に魅了されているようなので、何か良い本はないかと探してみたら、これが見つかったので図書館で借りて、先に読んでしまった。

う~ん、民謡の世界だ! それぞれの一族に伝わる「バラッド」は「大きい唄」と呼ばれるという。なんかそんな言葉をこちらの世界でも聞いたことがある。返し…じゃない、リフレインの部分を同席した皆で唱和することでコミュニティとしての一体感を確認しつつ、メインの唄の部分についてはそれぞれの家に伝わる歌い方を披露し、個性と先祖との系譜を承認し合う…。

そして、コミュニティのなかで歌い継がれてきた唄が「発見」され、商業化されたステージの世界に進出していき(あるいは取り込まれ)、コミュニティは変質していく…。

音階(旋法)の説明など、音楽の知識が必要な箇所も少しばかりあるが、9割方は、そのような知識なしに楽しめる本。いま家人が読んでいるのだけど、戻ってきたら、紹介されているミュージシャンを手がかりに音源を探してみよう。

羽生善治・梅原猛・尾本恵一『教養としての将棋 おとなのための「盤外講座」』(講談社現代新書)

少し前に読んだのに書くのを忘れていた。

「観る将」(自分は指さないが、観るだけの将棋ファン)を視野に入れた、文化としての将棋をいろんな側面から語る本。

冒頭の羽生・梅原の対談はやや散漫な気もするし、羽生の話については他でも語られていることがけっこう多いのだけど、プロ棋士はAIには勝てないということがもはや当然の前提として語られていることはさすがに感慨深いし(本書は2019年6月刊)、やや唐突に飛び出る梅原の靖国神社考なども、ほほうと思わせる。考古学的なアプローチ(原則として出土品に裏付けられない主張は慎む)から見た日本将棋の誕生に関する考察や、「駒」という点から一点集中的に将棋を考える章も面白い。

Amazonのレビューには「やっぱり少しは指せる人でないとこの本は楽しめないのではないか」という意見もあったが、駒の動かし方を知っている(忘れているかもしれない)程度の家人も楽しく読んだようなので、その心配はなさそう。

 

 

對島達夫『ヒトラーに抵抗した人々 – 反ナチ市民の勇気とは何か 』(中公新書)

『ヒトラーとナチ・ドイツ』を読んで、では、そうした体制・社会に対する抵抗はどのように可能/不可能なのか、と思って、これに進む。

抵抗そのものの難しさについて思うところはいろいろあるのだけど、それにしても、戦後(1950年代)の西独で、ヒトラー/ナチに抵抗した人たちが依然として(全面的にではないにせよ)「裏切り者」扱いを受けており、復権には時間を要したという点に衝撃を受ける。その意味で、ドイツの敗戦は日本の敗戦とはだいぶ違う。

それと、戦後~現代のドイツにおいて「キリスト教」を正面から名乗る政党(ドイツキリスト教民主同盟=CDUと地方政党・キリスト教社会同盟=CSU)が、常にではないにせよ政権を握っていることについて「現代の民主政国家なのに政教分離はどうなっているんだ?」という疑問を以前から漠然と抱いていたのだけど、この本では、直接的にCDU・CSUに言及してはいないものの、その点についての興味深い解説がなされていた。要は、世俗国家の暴走を阻む上位の審級としての宗教倫理、という観点。

 

石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社現代新書)

このテーマに関しては池内紀や舛添要一の近著が話題になっているようなのだけど、「基本的にはこのあたり(つまり本書と、もう一冊何か挙げられていたはず)をお勧めしたいというのは変わっていない」と誰かが書いているのを読んで、手に取ってみた。

ヒトラー/ナチが民主的な手段により政権を握ったという俗説があるけど、実際の経緯を知ると、とうていそんな穏やかな話ではないことが分かる。

何はともあれ、民主的な社会と基本的人権は石にかじりついてでも守らないとこういう流れになってしまうのだな、ということはよく分かる。経済や外交でいくら美味しい話があっても、その部分で妥協しては絶対にダメなのだ、と。

なおヒトラーの経済政策が成功したことで国民の心をつかんだという話もあるけど、その一例とされる失業問題の解決については、なんだそりゃという感じ。確かに街中で見かける失業者は減ったのだろうけど、そのことをもって「失業問題を解決した」と称するのは、それはいくら何でもあんまりだろうという印象。

たとえば昨今の経緯によって、もはや日ロ間に北方領土問題というのは存在しなくなったと言っても、少なくとも当面のあいだは大きな間違いはなかろうけど、それをもって「安倍政権が北方領土問題を解決した」と胸を張れるのか、というような話。

宣伝の恐ろしさというものを感じる。

 

シェイクスピア『ソネット集』(岩波文庫)

まぁ憂鬱なことの多い世の中なので、それに合わせた問題意識で本を読んでいると、今ひとつ楽しい読書にならない。そこで、たまには浮き世離れした本を読んでみる。

もともと、4月にアガサ・クリスティーの『春にして君を離れ』を読んだときに、タイトルの出典である(小説中でも言及されている)シェイクスピアのソネットって全然読んだことないなぁ、一度くらい読んでみてもいいかなぁ、と思ったのがきっかけ。kindleだと原書は無料で入手できるので、必要に応じて参照することにして、岩波文庫版を購入。

浮き世離れした読書をしたいという目的は完全に満たされます。

まぁ何かの折にこれを引用して、などという洒落たことをする機会はまず来ないだろうけど(笑)、うん、やはり古典はよいですね。時空を超えている。

愛する者の美しさを自分の詩という形で永遠に残すのだ、彼の命はもちろん失われ、建物が朽ち果て、墓碑銘も消え去っても、詩の形で残せば残るのだ、と大言壮語をかましたシェイクスピアは、本当に数百年後にも自分の詩が、遠くジパングの地でも読まれると想像していただろうか。「数百年? 私のいう永遠には、それでは遠く及ばない」と言い捨てるかもしれない…。

翻訳は、もちろん体裁は整えつつも、意味がしっかり伝わることを旨としているものなので、雅趣のある韻文に仕立て上げられているわけでもなく、その点では物足りないと言えば物足りない。この訳文を記憶に刻むという種類のものではない。その意味で、もっと古い(坪内逍遙とまではいかずとも)訳詩を読んでみたい気もするのだが、この訳ももう30年以上前のものなのだなぁ…。

 

 

山崎雅弘『歴史戦と思想戦~歴史問題の読み解き方』(集英社新書)kindle版

「南京大虐殺」論争とか従軍慰安婦問題については、これまでもそれなりに勉強はしてきたので、そういう意味では特に新しい知見は得られなかったのだけど、そういう個々のトピックのレベルはさておき(もちろんその部分も有益ではある)、歴史問題全体に関する大局的な視点を提示するという点で、よい本である。

特に、「日本」という言葉が、ある文脈において(そして特に「自分にとって」)具体的には何を意味しているのか、という把握。これについては鴻上尚史さんが連載コラムで実に的確にまとめているので、ひとまずそれだけでも読んでいただきたい。

「日本の悪口を言う奴は反日だ」と叫ぶ人たちが取り違えていること/鴻上尚史

(これを紹介するとこの本が売れなくなっちゃうかもしれないけど…)

もう一つこの本で面白いのは、「歴史戦」を展開している産経/日本会議系の論客が、いかに「外からどう見られるか」に無頓着なままに論を張っているか、という指摘。「外からどう見られるか」ってプレゼンの基本だと思うのだけど、まぁ日本にはそういう伝統はないからねぇ…。

内田樹『困難な成熟』(夜間飛行)

考えてみれば、ウチダ先生の単著を読むのはずいぶん久しぶりである。申し訳ないが、だいたいいつも「同じ話」なので、しばらく飽きていた、というのが正直なところかもしれない。

これも出版されたのはだいぶ前(私が読んだkindle版だと2015年9月になっている)なのだが、どうにもやはり、この日本の社会がだんだん奇妙なことになりつつあるせいなのか、ああ、そういうことなのかと膝を打つところがいくつかあった。

特に「贈与の訓練としてのサンタクロース」と「寿命の設定が短縮された」の部分かな~。

変な言い方だが、「愛や夢や希望みたいなことを語るための、『そういうことにしておく』ドライな割り切り方」について書かれた本なのではないか、という思いがする。

 

ジュリオ・トノーニ、マルチェッロ・マッスィミーニ『意識はいつ生まれるのか』(花本知子・訳、亜紀書房)

少し前に読了。

その前に読んだスターンバーグの著作に比べると、だいぶ得るところは多い。ただ、意識を生み出す脳の状態(多様性と統合)という、いわば意識を成立させる物理的な条件についてはかなりの程度踏み込んでいるのだけど、ではそもそも意識とは何なのかという本質については、「ああ、もうちょっとなのに」という示唆はそこここに見られるものの、「届いていない」感がある。

やはりそのためには、哲学的な考察はさておき、新生児から成人への発達とか、もっと単純な構造の動物から進化していくとか、そういう発生論的なアプローチが必要なのだろうと思う。

その意味で『タコの心身問題』は(今年になって読んだばかりではあるが)再読する必要があるかもしれない(この本にも頭足類への言及はあり、学術書ではなく一般向けの科学啓発本という著者自身のポジショニングからこの本では出典・参考文献が示されていないのだが、恐らく『タコの心身問題』も踏まえているのではないかと想像される)。

結局のところ、この問題を考えるうえでは、「意味」と(したがって)「関係」という観点から切り込んでいくしかないのではないか、と思っている。