仲野徹『エピジェネティクス』を読んで、基本的な部分がだいぶあやふやなのに気づいたので、Amazonで類書を比較しつつ、これが良いのではないかと図書館で借りて、高校時代の生物の授業以来の復習~。
「カラー版徹底図解」というのが重要であって、実際、これくらいイラストをたくさん使って解説してもらわないとシロウトには分からないのである(笑)
エピジェネティクスやiPS細胞などにも少し触れていて、充実している。わくわくするような内容ではないけど、門外漢が一通りのことを知っておくためには便利な良書。
著者がいて、出版社があって、「取次」があって、書店があって、自分のような読者がいる。そういう「本」をめぐる構図はいちおう理解していたものの、具体的にどう本が動いているのかとか、金銭的な条件などには疎かった。
その意味で、将来的に出版社を起こして、とかそういうことはまったく考えない、単に読者としての立ち位置からしても、著者の個人的な体験というリアリティを伴いつつ、その部分がまず垣間見られたのは面白かった。
さて、そんな基本的な話は導入部分にすぎず、本書のテーマは「トランスビュー方式」を軸とする、新たな出版流通の試み。
伝統的な出版→取次→書店という仕組みは、体力のある大手出版社・大手取次の、いわば「権力」のもとで、多少の不公平感や不満はありつつも、さほど「志」の高くない書店や中小出版社でも何とかやっていける、そういう生態系。
それに対して、トランスビュー方式など「直」取引は、「売れる」本ではなく、「売りたい」本を刊行したい、「売りたい」本を並べたい、「志」の高い出版社や書店のためのシステムのようである。
どんな本を売りたいかいちいち選んで、注文から何から個別の出版社といちいちやり取りするほど気合いの入った書店なんて、そうそうない、というのが現実だろう。しかし、そういう、さほど「志」の高くない書店でもあっても生き残っていける、ある意味で優しい従来のシステムが先細りになっていく状況において、それが唯一無二のシステムであれば、「志」の高い書店や出版社も、他に本の流通を実現する手段を持たずに、道連れに滅びてしまうことになる。
その意味で、「直」は、必ずしも現行の取次システムに取って代わるものではなく、それを補完したり、いざというときに逃げ込めるような、そういうオルタナティブなのだなぁ、というのが本書の読後感。
そんな私がこの本を読んだ翌日、明らかに「志」の高い駅前の書店で買った本は、1冊が講談社文庫(大手出版社だから当然取次経由)、もう1冊が、裏表紙を見れば、ああやっぱり「トランスビュー取引代行」のシールが貼られていたのでした。
ちなみに、私のような門外漢の読者にはさほど必要ないのだけど、索引がしっかり付いているところもこの本の美点の一つだと思う。
『飛ぶ教室』を読んで『君たちはどう生きるか』を連想し、そういえば吉野源三郎の文章って他に読んだことがないなぁと思って、これを図書館で借りる。
1970年代、つまりソ連崩壊も中国の市場主義経済大国としての台頭もはるか先の頃なので、もちろん、その時代の条件に制約された文章ではあるのだけど、誠実さとか真摯さという意味では、そういうのってあまり関係がない。
本編は、当時進行中だったヴェトナム戦争についての文章・講演録なので、さすがに今日性はじゃっかん薄れているが、冒頭に置かれた「同時代のことー序に代えて」は、今でも切々と訴えるものがある文章だ。
「実際に日常の生活に衝撃を与えるような事件が起こるとか、そのような状況が発生しない限り、大多数の人々は自分たちの日常に直接かかわりのないことに眼を配ろうとはしないのが常である」(p23)
「この危険は、日本の場合には、国民が無知の状態に置かれるという危険だけに留まらなかった。国民を無知の状態に置こうと努める者自身が、いつのまにか恐るべき無知に陥っていたのである。」(p24~25)
『飛ぶ教室』を読んだ後、ケストナーについていろいろ情報を仕入れているうちに、児童文学ではない作品を読みたくなって、タイトルに惹かれて、これを図書館で借りてみた。
くだらない……と言ってしまうと失礼だが、たあいのない話。
ザルツブルクが舞台なのだけど、まさに『フィガロの結婚』とか、いや、もっと小体な、オペレッタにでもありそうな話。訳文はいかにも古めかしいが、むしろふさわしい雰囲気を醸し出している。
原題とはまったく違う「一杯の珈琲から」という洒落た邦題のつけかたも、昔の映画みたいでよい。最後のオチも気が利いている。
『飛ぶ教室』と違って、これが世界に存在しなくてもたいした損失にはなるまいが、愛すべき佳品。好きだなぁ、こういうの。
(書影は東京創元社のサイトより拝借)
冒頭、パナマ文書の章は「これ、そのままサスペンス小説になるんじゃない?」と思わせるくらい、読ませる。それ以降はややトーンが落ち着くものの、グローバリゼーションの流れのなかで国民国家という枠組みがいろいろ機能不全に陥るなかで、ジャーナリストたちがそれに対する一つの答えを出しつつある様子に勇気づけられる。
ところが最終章で語られる日本の状況は、それとはあまりにも落差が激しく……。昨今伝えられる公文書廃棄にせよ、しょっちゅう出てくる「のり弁」にせよ、この国は後進国(途上国ではなく、後ろに進んでいる国)なのだなぁという残念感がふつふつと沸いてくる。ま、それはさておき、この章では「個人情報」保護との絡みでパブリック/プライベート概念の問い直しがあって、前著『英国式事件報道』からの問題意識が引き継がれているのが良い。この本を読んで面白いと思ったら、読む順番は逆でも全然問題ないので、ぜひ前著もオススメする。前著ではグローバルな話よりももっと身近な事件が取り上げられているので、むしろ読みやすいかもしれない。
そういえば、確か何度か「権力者や犯罪者」と同列に並べられている点が面白くて、「うんうん、報道というのはそういう視点であるべきだよな」との意を強くした。
ケストナーの作品のうち、子どもの頃に『エーミール……』シリーズや『ふたりのロッテ』を読んだ記憶は濃いのだけど、この作品は(たぶんいちばん有名なはずだし、タイトルはよく知っているのに)読んだことがなかったみたい。
家人の影響で、この年齢になって初めて読んだわけだけど、「この小説があるのだから、この世もけっこう捨てたものではない」と思えるほど、味わい深い名作です(※)。
(※昔の作品なので当時の意識に基づく制約はあるが、そのへんは訳者あとがきで適切に言及されている)。
私はキリスト教徒ではないし(育った家庭環境のせいか多少の親しみはある)、商業化したクリスマスには辟易するけど、でも、こういう小説の設定として素晴らしく活きるのがクリスマスのいいところだよね、と思います。
ナチス政権下のドイツで書かれ、そうした社会・政治状況に対する警鐘が盛り込まれているというのも、もちろんこの作品の貴重な価値であって、その点も含めて、読んでいて何となく、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』と重なるものを感じました(『君たちは…』のほうがはるかに教養主義的というか「勉強になる」内容ですが)。『飛ぶ教室』は1933年、『君たちは…』は1937年。前者の日本語訳が出たのは戦後だけど、吉野源三郎がドイツ語を読めないはずはなく、入手して影響されていたりしないだろうか、などと思います(調べていませんが)。
ところで登場人物のうち誰に感情移入するかというと、まぁタイプとして自分が一番近いのは、その性格的な欠点も含めて(というか欠点ゆえに)、ゼバスティアーンだろうなと思います。ああ、こういうことオレもやっちゃっていただろうなぁ、と。その一方で(自分とは距離があるけど)「こうでありたい」という意味で惹かれるのはジョニーかな。
ドイツ語は読めないので原文と対照したわけではありませんが、池田香代子の翻訳はたいへん良いと思います。先に買ってあった池内紀の訳(新潮文庫)は、残念ながら今ひとつ(ふたつ、みっつ)。池田訳のように、「ですます」調でひらがなを多用する児童文学っぽいスタイルだからといって、大人が読むに堪えないというわけではない、むしろ逆である、という気がします。
村上春樹関連の流れでこれも読まないとなぁということになり、久しぶりに古典を(といっても江戸時代だが)。
亡霊とか生き霊とかが出てくる怪異譚が中心なのだけど、昔の話なのに「うわっ、こ、これは恐い!」と思える部分があるのが凄い(いちおう一カ所だけだったが)。あと、最後の一篇の経済談義はけっこう面白い。
残念なことに、節ごとに挟まる解説がどうも過剰というか、読者の理解を助けるというより校注者の解釈を押しつける気味が強い。もちろん、きちんとした学者が研究を積み重ねて至った成果が披露されているのだろうけど、それは巻末の解説にまとめてくれればいいのであって、物語を味わう途中ではかなり煩く感じる(というわけで、途中からその部分はけっこう飛ばし読み)。現代語訳の部分は読みやすくて良いのだけど、語釈のところにもけっこう校注者の色が出ているから油断がならない。
というわけで、原文と現代語訳を読むのであれば、こんな分厚いバージョンでなくてもいいかもしれない。