読んだ本」カテゴリーアーカイブ

荻原博子『生き返るマンション、死ぬマンション』(文春新書)

この1年、いま住んでいるマンションの管理組合の理事をやっているのだけど、理事長から「面白かったよ」と貸してもらった本。

後半の章で紹介される、いわばベストプラクティスは、「こんなのウチのマンションじゃ無理だよな~」とも思うし、そういうマンションに住みたいかと言われると、決してそうは言い切れないような例も出てくる。が、まぁ個別具体的な状況が違うだけで、基本は共通するのかな……。その意味で勉強にはなりました。

ところで、これは編集者レベルの問題だと思うし、この本に限ったことではないのだけど、本文中では西暦で書かれているのに、グラフの時間軸は元号表記になっているとか、本文中で「いまからxx年前」と書かれているとか(「いま」が何年なのか奥付を確認する必要がある)、そういうのは何とかしてほしい……。

 

冷泉為人『冷泉家・蔵番ものがたり―「和歌の家」千年をひもとく』(NHKブックス)

大学受験のときは日本史・世界史選択だったのだけど、日本史では基本的に「紅旗征戎」の側面が中心になるわけで、だいたい源平の戦い以降は、公家の出番はほとんどなくなる。しかし、そのおかげで現代に遺されてきた文化もあるわけで、この本を読むと、けっこう長い時代にわたって、日本史のもう一つの側面が実感できるようになってくる気がする。

マルセル・プルースト『失われた時を求めて(7)』(吉川一義訳、岩波文庫)

フランス語教室(休会中)の仲間(たぶん少し年上の女性)が大学の卒論だかをプルーストで書いたということで、爾来、この作品を繰り返し読み、昨今で言う「聖地巡礼」も重ねているそうなのだけど、確かに、読み返せばまた全然違う印象があるのだろうな、という気がしてきた。まぁ他にも読みたい本はたくさんあるし、そんな暇はとてもないのだろうけど。

マルセル・プルースト『失われた時を求めて(6)』(吉川一義訳、岩波文庫)

昨年5月以来中断していたのだけど、突然、復帰。

7ヶ月も中断していたとは思えないくらい、すんなりとこの世界に戻れた。要するに、そこまでの流れを思い出さないといけないとか、登場人物を思い出さなければならないというほどのダイナミックなストーリーはないのだ(笑)

というわけで、この巻は一気に読了。やはり、なかなか悪くない。

 

伊勢崎賢治『新国防論』(毎日新聞出版)

この著者の本は以前にも読んだことがあったと思うのだけど、探しても記録が見当たらない……。

で、そのときにも同じことを感じたと思うのだけど、いくつか「それはないんじゃない?」と突っ込みたくなるところはあって、たぶんそれは、たとえば学者なら備えているはずの「深み」の乏しさに由来するのではないか。

しかしそれでも、この著者が紛争の現場で稀有な体験をしていることは揺るがないし、そういう実務に根ざした提言として謹聴すべき部分はたくさんあるように思う。

 

 

 

冷泉貴実子『和歌(うた)が伝える日本の美のかたち』(書肆フローラ)

小倉百人一首は全部覚えているし、だいたいの歌意は理解しているつもりだけど、細かいところで思わぬ勘違いをしていることがある。

いや、「ことがある」というより、けっこう多いかもしれない。この本を読んで、その一つに気づいた。

「風そよぐ ならの小川の 夕暮れは」って、奈良の歌だとばかり思っていました。

だって、

「いにしえの ならの都の 八重桜」は、奈良でしょ?(違ったりして)

でも、「ならの小川」は、京都なんですね。

(Amazonに書影がなかったので適当に撮った写真ですみません)

2017-01-19 07.53.34 (Medium)

 

 

 

趙景達『近代朝鮮と日本』(岩波新書)

地上波のテレビを観ることはほぼないので、日本のテレビのニュースで朴槿恵大統領弾劾のデモの様子は新聞の写真程度でしか目にしていないのだけど、それでも相当の規模のデモが続いていたということは察せられる。日本ではどれほど大きな問題であってもせいぜい数万人の規模なのに、どうして隣国ではあのように大規模なデモが発生しうるのか。国民性の一言で片付けるのでは済まない気がして、図書館で目にしたこの著者の本を借りてみた。実際には『植民地朝鮮と日本』を先に手に取ったのだけど、時系列的に先行するこちらをまず借りる。

この本が語る近代朝鮮史の時期には、上述のような大衆的な抗議行動の文化が確立していたことが分かる。キーワードは儒教的民本主義、一君万民か。

先にFacebookへの投稿でも書いたのだけど、なぜ大韓民国(その前の大韓帝国から)は「朝鮮」を名乗らなかったのか、なども興味深い。

興味深いといえば、もう一点。

著者は名前からすると韓国・朝鮮系だけど、東京生まれで東京の大学を卒業し、現在も千葉大学で教えているようなので、日本語はほぼ完全にネイティブだろうし、世代的にも私とは10歳くらいしか離れていない。

が、使う言葉は妙に分かりにくい。

たぶん、「日本も朝鮮・韓国も同じ漢字文化圏」という意識があって、朝鮮(史)で使われる漢語は日本語でも普通に理解されるもの、という感覚なのではないか。苛斂誅求くらいはいいとして、郡衙とか上疏とかは、注釈を付けるなり、もう少し編集者が配慮してもよかった気がする。

ま、それはさておき興味深い本ではあるので、引き続き、続編も予約。