読んだ本」カテゴリーアーカイブ

鴻上尚史『八月の犬は二度吠える』(講談社)

著者が主宰していた虚構の劇団/第三舞台のファンにとっては、「舞台にするなら、この役はあの人かな…」などと想像をめぐらせる楽しみのある作品。そうやって考えているとだんだん役者の数が足りなくなったり、時間的・空間的な移動の関係でなかなか演出が難しそうだったり、ああ、やっぱり舞台では難しいことを小説でやりたかったのかなぁと思わせる(舞台化もされているみたいだけど)。

しかしこの作品で本当に面白いというか興味深いのは、主人公たちの物語が最終的にはとても残酷で、その残酷さはむしろ滑稽とまで言えるのだけど、ひょっとしたらそれは作者が期待した解釈ではないのかもしれない、と思わせるところだ。もし「いや、その解釈は私の意図した通りですよ」と作者が言うなら、けっこう意地悪な書き方というか、読者の多くの部分は、それとは違う解釈のまま読み終わってしまうような気がする…。

ネタバレになってしまうけど、要するに、「彼女が命を絶った理由と、彼女がそのとき望んでいたこと」を、主人公たちは理解しないまま今に(つまり小説の末尾にまで)至っている、ということだ。しかし、「主人公たちは勘違いしたままである」という設定が作者が意図したものだ、と言えるかというと、これはまた問題である。

いずれにせよ、複数の解釈や読み方を許容するという点で、それが作者の意図したものであるかどうかはともかく、良い作品だと言える。

又吉直樹『火花』(文春文庫)

珍しく、話題を呼んだ芥川賞受賞作品を読もうと思ったのは、先日読んだ宮沢和史『沖縄のことを聞かせてください』に対談相手として著者が出てきたから。

著者自身がモデルと思われるお笑い芸人の話だが、まぁ芝居でもバンドでも映画でも文学でも、表現者を主人公にした物語として普遍性のある作品だと思うが、悪く言えば、ありきたりとも思える。受賞に至ったのは、やはり昨今のパフォーミングアートの中では人気を集めやすい「お笑い」が主題だったからなのかな、という印象。

私自身はお笑いという芸事にほとんどまったく関心がない。それは、実際に見ればもちろん大笑いして楽しめるのだろうけど、本当に自分が面白いと感じるのはまったくオチのない話だったり、ボケもツッコミもなしに延々と続けられる会話だったりするだろうなぁ、と思ってしまうからなのだ。そもそも、(この作品でもそういう設定が出てくるけど)観客の投票によって順位をつけるような世界にはどうにも違和感があって、誰も笑わないけど自分だけが面白いと思うようなネタが本当に面白いのだ、とも思う。ある意味で、この作品の主人公が師匠と仰ぐ神谷という人物は、そういう面白さを追求している(したいと思っている)のかもしれないが。

 

久世光彦『ベスト・オブ・マイ・ラスト・ソング』(文春文庫)

和田静香さんのnote→小泉今日子(朗読)/浜田真理子(歌・ピアノ)『My Last Song』を経由して、この本を手に取った。

第二次世界大戦で命を落とした将兵を「美しい日本の山河を護るために、死んでいった」と捉えるような戦時下への郷愁や、読んでいるこちらが恥ずかしくなるような旧態依然としたジェンダー観は、実に産経文化人的な印象で、ちょっと辟易するほどである(それも無理からぬ話で、何しろ初出は「正論」での連載なのだ)。そういう思想と相容れなさそうな小泉/浜田へとつながっていくのが不思議なくらい。

とはいえ、もちろん、私にとっても琴線に触れる楽曲が取り上げられている章もたくさんある。

なかでも、小泉/浜田のCDに収録されていなかったせいもあって意表を突かれたのが、「おもいでのアルバム」という曲。本文中に引かれた歌詞を目にするなり、即座に頭の中でそのメロディが流れ始めた。実際に自分が歌ったとすれば50年以上前。その後何かの折りに耳にすることがあったとしても…いや、そうそう接する機会はない歌だし、いずれにせよ、物心つく前のはずだ。そもそも、タイトルさえ記憶になかった。というより、知らなかった。そんな歌が、歌詞を示されただけで脳裏に再現される。そのこと一つをとっても、歌というのは不思議なものである。

さて、私が「マイ・ラスト・ソング」に選ぶとしたら、何の歌だろう。実はMy Funeralと題したプレイリストはあるのだけど、これは、もし自分を偲んでくれる人がいるとすれば、そのあたりの曲と共に覚えていてほしいという話であって、自分が臨終の際に聴いていたいというのとはちょっと違う。

ところで著者の一曲は、結局これと決まったのだろうか。急逝だったようだから、実際にはそれを聴きながら、というわけにはいかなかったかもしれないが…。

臼杵陽『世界史の中のパレスチナ問題』(講談社現代新書)

古くは古代ユダヤからキリスト教の誕生、そして現代に至るまでの歴史の中に中東・パレスチナ問題を位置づけるという、新書サイズでそれをやるか、という野心的な内容。いちおう知っている内容が多かったけど、平易さをめざして「ですます」調で書かれているせいで、却って読みにくくなっている印象もある。

本書の出版は2013年なので、今まさに展開中の事態について直接的な手がかりになるとは限らないが、かつてはアラブ(諸国)対イスラエルという構図だったのが、どのような経緯で「パレスチナ」に凝縮されていったのかは伝わってくる(何しろ情報量が多いので消化不良にはなるが)。

結局のところ、問題の大半はキリスト教国、もっとはっきり言えば欧米諸国の責任だよな、という話になってしまうのは必然なのだけど、それも数百年にわたる話なので、現代の欧米諸国がきちんとその責任を取るというのも現実的には無理筋。一方で、もちろん、イスラエルのここ数カ月の行為が許される理由は皆無である。

今回のイスラエルによるホロコーストで、問題の解決はさらに30年、あるいはそれ以上先送りされてしまったと思うのだけど、ひとまずは、できるかぎり流血の事態を防ぐ対症療法に徹して、新たな英知が芽生えるのを待つしかない、という気がする。たぶん、国民国家という枠組が有力なままであるあいだは解決できないのだろう。

 

藤沢周平『蝉しぐれ』(文春文庫)

家人の実家には藤沢周平作品がけっこう揃っていて、年明けに新年会で訪れた際に、「『たそがれ清兵衛』を読んだけど、次に何を読もうか」と相談したら、この作品の名が挙がったので借りてきた。

一つの中編作品なのだけど、それを構成する一章一章が独立した短編でもあるかのように存在感があって、そこがよい。一気に何章も続けて読むのではなく、一章ずつ、日数をかけて読んでいく感じ。

巻末の解説で西欧の近代小説との類似が指摘されている影響もあって、読後、何となく、フローベール『感情教育』を再読したくなった。

(↓ 画像とリンク先はkindle版だが、現行の文庫版は上下二冊になっているようなので。私が読んだものは一冊)

中井亜佐子『日常の読書学:ジョゼフ・コンラッド「闇の奥」を読む』(小鳥遊書房)

先日『闇の奥』を読んだのだけど、何がキッカケで読む気になったのかまったく自覚していなくて、ひょっとして、これの書評でも読んで気になったのかな、と思って本書を手にとった次第。実際には理由は違ったような気がするけど、ひとまずこの本もよい本であった。

以前に読んだ『批評理論入門-「フランケンシュタイン」解剖講義』と同様に、一つの作品をいろいろな方法で読んでいく試み。「日常」というタイトルのわりに、けっこう専門的な「批評」としての読みの比重が大きいのがちょっと残念な気もするが、それはそれで面白い。

しかし、ある「読み方」を選択することが、それ以外の読み方に対する否定にならないようにするのは、けっこう難題だよな…と思う。それにしても、たとえば欧米先進国がアジアやアフリカを蔑視していた過去というのは、そちらの人間にとってもこちらの人間にとっても、もはや拭い去ることのできない歴史で、誰もそこからはのがれられないのだよなぁと、昨今のご時勢を見るにつけても、なかなか辛い現実であるように思う。もちろん、それに耐えられずに修正主義に走ってしまう心弱い人たちもいるわけだが。

宮沢和史『沖縄のことを聞かせてください』(双葉社)

良さそうだと思って買ったのに「積ん読」状態になっている本を片付けていく年にしようと思っていて、その第一弾。

12月に書いたことだが、沖縄について「恥ずかしくて行けない」という意識を抱いてしまう私のような人間から見れば、ある意味、その先駆者的な立場にある宮沢和史(THE BOOM)の対談集。対談部分も、相手の人選を含めて実に読み応えがあるのだけど、序曲・間奏曲的な宮沢自身のエッセイ部分もとてもよい。

THE BOOM「島唄」を知らない人はほとんどいないと思うのだが、20世紀終盤くらいに唄三線を始めた場合、

(1)「島唄」を聴いて、ああ、沖縄の唄っていいなぁと思う
(2)唄三線を始める
(3)「『島唄』なんて、あれはヤマトの人間が作った紛いもので、本当の島唄っていうのはね~」などと思うようになる(口にする人もいる)
(4)もう少し稽古を積む
(5)「そうか、『島唄』のイントロって…」などと思うようになる
(6)「『島唄』ってきちんと民謡をリスペクトしているよね」と思うようになる

みたいなパターンをたどる人がけっこういたのではないか。たぶん(3)で止まってしまった人も多いだろうけど。

本書には、その「島唄」が作られヒットしていった頃の経緯が詳しく書かれていて、上の流れで言えば、(7)のキッカケになるような気がする。

ちなみに対談部分で言えば、平田太一の章、「斜め」の立ち位置にいる大人についての言及が特に印象的だった。

ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』(光文社古典新訳文庫)

2024年一冊目は、これ。

例によって、どういうキッカケでこれを読もうと思ったのかは忘れてしまった。『地獄の黙示録』の原作というか下地になった作品として有名。この版の解説にあるように、オープンクエスチョンのままというか、明快なカタルシスのないまま終る、熱病に浮かされたような印象を与える小説のように思える。

「話の意味は、胡桃の実のように殻の中にあるのではなく、外にある」(15頁)

そういえば、「日常の読書学:コンラッド『闇の奥』を読む」という本が昨年初めに出版されたらしい。もしかしたら、この本の書評を読んで、まずこの作品を読んでおこうと思い立ったのかもしれない。

竹倉史人『土偶を読む-130年間解かれなかった縄文神話の謎』(晶文社)

わずかな部分を除いて昨年中に読み終わっていたので、2023年に読んだ本にカウントしておく。

昨年刊行された人文書の中で高く評価されていたのが、本書に対するアカデミックな批判と思われる『土偶を読むを読む』(文学通信)。本書を読まずに、こちらをいきなり読んでも大丈夫そうなのだけど、図書館の予約もだいぶ待たされそうなので、待たずに借りられる本書をまず読んでみることにした。

私自身、このところ毎年夏、まさに縄文文化が栄え、国宝に指定されている「縄文のビーナス」が発見された場所を訪れているので(もちろんこの土偶も本書で取り上げられている)、土偶にまったく無関心というわけでもない。

専門的な立場からの批判書が出ているということを知ったうえで手に取ったので、先入観を抱いた状態で読んだのは否定できないけど、それはそれとして、面白いですよ、これ。サントリー学芸賞を受賞したのもうなずける(もっとも同賞の「社会・風俗部門」というのは、どういう位置付けなのか分からないけど)。

もっともその面白さは、土偶のレプリカと一緒に寝ているうちにインスピレーションを得てしまったり、「縄文脳インストール作戦」なる(かなり独りよがりな)アプローチを試みたりと、トンデモ本系のあやうい面白さ、と言うべきかもしれない。まぁ、いわゆる「遮光器土偶」を古代に地球を訪れた宇宙服着用の異星人の姿に見立てる解釈よりはだいぶマシであるとはいえ。

考古学や土偶についての知識がなくても、著者の論理展開にはけっこう矛盾や無理を感じるし、「さすがにそれはコジツケでしょ~」と叫びたくなる部分もある。

まぁ、専門的な学者の見解へと読み進めためのステップ(文字どおり、踏み台)としては面白い本なのではないか。近々、『土偶を読むを読む』も読むつもり。

幡野広志『うまくてダメな写真とヘタだけどいい写真』(ポプラ社)

中学時代に写真部だったのだけど、ちゃんと写真を勉強したことはないし、教えてもらった覚えもない。聞きかじり、又聞きなど、この本のなかで「三次情報」と批判されているような知識だけに頼って撮っていたように思う。

で、Twitter(現X)で著者が書いていたアドバイスに感心したことがあり、評判の良いこの本を買ってみた。

詳しい人が読めばもちろんいろいろ突っ込みどころはあるだろうし、何を撮りたいかによってはこの本のアドバイスがまったく見当外れになってしまう場合もある。とはいえ、私のようにちょっと写真に関心のあるシロウト向けの一般論としては、「おおっ」と思えるような教えがいくつも含まれているように思えた。「ヘタだけどいい写真」の作例として挙げられている写真も、なるほど、いい写真だ。

ただ、いくぶん整理不足を感じる部分があり、スマホだろうと安手のコンパクトデジカメだろうと使っている機材にかかわらず即座に実践できるアドバイスと、「そんなの、それなりの金額を払ってちゃんとしたカメラを買わなきゃ無理じゃん」というアドバイスが混在している。たとえば、「何が何でもRAWで撮れ」と書いてあるので、よし、そうしようと思って自分のカメラ(スマホ)を見てもその設定が無い、という状況はけっこう多いのではないか。

とはいえ、良い本。まぁプロはこんな本読まないだろうし、もちろん読む必要もないだろうけど、プロに読んでもらって、ツッコミを聞きたい。

(なお、この表紙のイラストにはあまり感心しない。著者の家族構成を反映しているのだろうから、こうなってしまうのは無理もないのだけど)。