我が家で取っている新聞に掲載されたジョー・バイデンとカマラ・ハリスの勝利演説が、前者は「である調」、後者は「ですます調」で訳されているのに呆れて(まぁ訳文の出所が違うのだけど)、以前から関心のあった論件ということもあり、この本を読んでみた。
明治以降の「てよだわ」言葉(「てよ」は昨今ではまず使われないだろうが)を中心に、鎌倉時代以降の女訓本に遡る歴史を踏まえて、主としてジェンダー論の視点から、天皇制とそれを支える家父長制・家族国家観と絡めつつ、「女ことば」が、規範として教えられることによって定着してきた経緯を解き明かしていく、という内容。
バイデン/ハリスの演説の訳例にも見るように、その過程で「翻訳」も大きな役割を演じてしまっているというのは、自分の日々の仕事のなかでも常に関心を注ぐべき点。本書に挙げられている「ハリー・ポッター」シリーズの例は非常に分かりやすい。
日本での「女ことば」の成立・定着過程はよく分かるのだが、では、他言語ではどうなのか、と言うのが気になるところ。というのも、国民国家を支える「国語(標準語)」確立へのニーズや、19~20世紀における国家競争力の強化のための性別役割分業といった要因は、日本だけでなく他国でも(時期の違いはあれ)同じように見られたはずなのだが、それは言語レベルには及ばなかったのだろうか、と。
さらに遡って、たとえば『十二夜』で、ヴァイオラのときとシザーリオのときでは、如実に分かる言葉遣いの違いというのはあるのだろうか。というわけで、kindleで無料のTwelfth Nightを入手してしまった…。