最相葉月『セラピスト』(新潮文庫)

新著『証し 日本のキリスト者』を紹介する記事を見かけて、そこで言及されていた本書を先に読んでみようかと思い、手に取った。

基本的には箱庭療法と風景構成法など「絵を描く」心理療法を軸として、カウンセリングが日本に紹介された歴史やその後の推移を辿りつつ、という構成の本。

そもそも自分自身はもとより近親者も含めて精神疾患とは縁が薄いこともあり、言葉によるコミュニケーションがうまく行かない状況でのこの種のアプローチにも今ひとつ実感が湧かない部分はあるのだけど、仮に自分が箱庭を作る立場になったら、どんなものを作るのだろう、とつい考えてしまう。もっとも、そんな状況を予期して自分が作る箱庭をあらかじめ想像してしまうような人間には、そもそもそういう療法は必要ないというか、意味がないのだろうけど。

もちろん、心身ともにまったく問題のない人間などほとんどいないわけで、私自身にも何か問題がないはずはないのだが、日常生活に支障が出るような事態にまで至ることがないのは、ひょっとしたら、

そんな彼らの認知世界を考慮すれば、診療においても日常生活においても、「(心理的に)空間的距離をとることによって、出来事を相対的に矮小化すること、(心理的に)時間的距離をとることによって、悪夢化しやすい長期的予測をさけること」(「精神分裂病状態からの寛解過程」)といった配慮が必要ではないか--(本書299頁)

という「距離の取り方」を自然に駆使してしまっているからなのかな、という気がする。

その他、いくつか印象に残った点。

昨今、一人のクライエントにじっくりと時間をかけて付き合う余裕がなくなって「一期一会」状態になってしまっている(したがって継続的に箱庭を見ていくような治療ができない)というのは、いろいろこの社会の現状を象徴しているように思う。

時代によって、いわば流行する精神疾患が移り変わっていくというのも興味深い。もちろん、診断区分等が変わって、これまで疾患とされていなかったものがカウントされるようになるという側面もあるのだろうが、それだけではないような気がする。たぶん人間にはあらかじめ「心の病」に至るゲートやルート(つまり脆弱性ということだが)がいくつもあって、周囲の環境(つまり社会だ)の変化によって、どのゲートやルートが多く使われるようになるかも変わってくる、という話なのではないかな。

あと、やはり、本書終盤で出てくる、「治る」ことが必ずしも幸福なこととは限らない、少なくとも嬉しいことばかりではない、という話は、ある意味、感動的でもある。

 

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