日本のIWC脱退という「呆れて物も言えない」レベルのニュースに接するなかで、捕鯨といえば、この本が家にあるのに読んでいなかったなと思い出し、迂遠なようだが引っ張り出してみた。
1992~93年の調査捕鯨に著者が同行取材したルポルタージュ。
読み始めてすぐ、四半世紀前に「新人」としてこの調査に参加した調査員・船団員の青年たちは、いまどうしているのだろう、ということに思いを馳せる。もう40代半ばを越えているわけだが……。などと考えながら読み進めると、本書終盤で「10年後、20年後はどうしているのだろうね」と語り合う場面が出てきて感慨深い。これについては、「あとがき(調査から数年後)」「文庫版あとがき(調査から10年以上経過)」でも触れられているのだが、これから読むかも知れない人のために、その中身は伏せておこう。
さて、一読しての感想は、「頭のいい人だなぁ」という印象。
とにかく「現場」を見ることから始める著者は、そのうえで、「現場」の人々に感情移入してしまう傾向が強いようだ。
したがって捕鯨についても、最終的には「どういう理屈なら今のような(調査)捕鯨を維持できるのか」という点に収束する。基本的には著者も、現代的な都市生活者として捕鯨反対派の主張(環境保護、動物の権利という二本柱)にきわめて近いメンタリティを持っており、日本政府や水産業界に対する批判は辛らつなのだけど、「現場」を見る(見てしまった)ことで、鯨を捕る人たちの立場という観点を導入していくことになる。
調査捕鯨(著者は新たに「環境捕鯨」という言葉を導入するが)を維持するために著者が編み出した理屈は、なるほどと思わせるだけのものはあり、恐らくこの線で日本(などの捕鯨国)が押していけば、少なくとも調査捕鯨の維持は可能だったのではとも思うが、たぶん日本政府には(現政権に限らず)そのような才覚はなかったのだろう。
ただ、こういう頭の良さには危うい部分もあって、たとえば著者が犯罪組織やテロ組織に密着して取材したならば、そうした活動を部分的にでも正当化するような理屈を編み出してしまえるのではないか、という感もある。著者ほどではないが、自分自身にもそのような危うさを感じることはあって(たとえば私が原発容認に転じたらけっこうヤバいと思う)、以前「転向」に関する本を読んでみたりしたのも、そういう危うさへの意識によるものだ。
その意味で、「現場」を見て考えるという著者のスタンスは、どちらの立場でもそれなりの理屈をひねり出してしまう優秀さ/危うさを、「現場」のリアリティで担保するという意味を持っているのかもしれない。
【追記】もう一点、科学的/非科学的という評価軸について、科学的ではない=正しくない、ということではないということを指摘しているのは、科学史・科学哲学専攻という出自ゆえなのかな、と感心した。