投稿者「fuyuhi」のアーカイブ

藤沢周平『蝉しぐれ』(文春文庫)

家人の実家には藤沢周平作品がけっこう揃っていて、年明けに新年会で訪れた際に、「『たそがれ清兵衛』を読んだけど、次に何を読もうか」と相談したら、この作品の名が挙がったので借りてきた。

一つの中編作品なのだけど、それを構成する一章一章が独立した短編でもあるかのように存在感があって、そこがよい。一気に何章も続けて読むのではなく、一章ずつ、日数をかけて読んでいく感じ。

巻末の解説で西欧の近代小説との類似が指摘されている影響もあって、読後、何となく、フローベール『感情教育』を再読したくなった。

(↓ 画像とリンク先はkindle版だが、現行の文庫版は上下二冊になっているようなので。私が読んだものは一冊)

中井亜佐子『日常の読書学:ジョゼフ・コンラッド「闇の奥」を読む』(小鳥遊書房)

先日『闇の奥』を読んだのだけど、何がキッカケで読む気になったのかまったく自覚していなくて、ひょっとして、これの書評でも読んで気になったのかな、と思って本書を手にとった次第。実際には理由は違ったような気がするけど、ひとまずこの本もよい本であった。

以前に読んだ『批評理論入門-「フランケンシュタイン」解剖講義』と同様に、一つの作品をいろいろな方法で読んでいく試み。「日常」というタイトルのわりに、けっこう専門的な「批評」としての読みの比重が大きいのがちょっと残念な気もするが、それはそれで面白い。

しかし、ある「読み方」を選択することが、それ以外の読み方に対する否定にならないようにするのは、けっこう難題だよな…と思う。それにしても、たとえば欧米先進国がアジアやアフリカを蔑視していた過去というのは、そちらの人間にとってもこちらの人間にとっても、もはや拭い去ることのできない歴史で、誰もそこからはのがれられないのだよなぁと、昨今のご時勢を見るにつけても、なかなか辛い現実であるように思う。もちろん、それに耐えられずに修正主義に走ってしまう心弱い人たちもいるわけだが。

宮沢和史『沖縄のことを聞かせてください』(双葉社)

良さそうだと思って買ったのに「積ん読」状態になっている本を片付けていく年にしようと思っていて、その第一弾。

12月に書いたことだが、沖縄について「恥ずかしくて行けない」という意識を抱いてしまう私のような人間から見れば、ある意味、その先駆者的な立場にある宮沢和史(THE BOOM)の対談集。対談部分も、相手の人選を含めて実に読み応えがあるのだけど、序曲・間奏曲的な宮沢自身のエッセイ部分もとてもよい。

THE BOOM「島唄」を知らない人はほとんどいないと思うのだが、20世紀終盤くらいに唄三線を始めた場合、

(1)「島唄」を聴いて、ああ、沖縄の唄っていいなぁと思う
(2)唄三線を始める
(3)「『島唄』なんて、あれはヤマトの人間が作った紛いもので、本当の島唄っていうのはね~」などと思うようになる(口にする人もいる)
(4)もう少し稽古を積む
(5)「そうか、『島唄』のイントロって…」などと思うようになる
(6)「『島唄』ってきちんと民謡をリスペクトしているよね」と思うようになる

みたいなパターンをたどる人がけっこういたのではないか。たぶん(3)で止まってしまった人も多いだろうけど。

本書には、その「島唄」が作られヒットしていった頃の経緯が詳しく書かれていて、上の流れで言えば、(7)のキッカケになるような気がする。

ちなみに対談部分で言えば、平田太一の章、「斜め」の立ち位置にいる大人についての言及が特に印象的だった。

ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』(光文社古典新訳文庫)

2024年一冊目は、これ。

例によって、どういうキッカケでこれを読もうと思ったのかは忘れてしまった。『地獄の黙示録』の原作というか下地になった作品として有名。この版の解説にあるように、オープンクエスチョンのままというか、明快なカタルシスのないまま終る、熱病に浮かされたような印象を与える小説のように思える。

「話の意味は、胡桃の実のように殻の中にあるのではなく、外にある」(15頁)

そういえば、「日常の読書学:コンラッド『闇の奥』を読む」という本が昨年初めに出版されたらしい。もしかしたら、この本の書評を読んで、まずこの作品を読んでおこうと思い立ったのかもしれない。

竹倉史人『土偶を読む-130年間解かれなかった縄文神話の謎』(晶文社)

わずかな部分を除いて昨年中に読み終わっていたので、2023年に読んだ本にカウントしておく。

昨年刊行された人文書の中で高く評価されていたのが、本書に対するアカデミックな批判と思われる『土偶を読むを読む』(文学通信)。本書を読まずに、こちらをいきなり読んでも大丈夫そうなのだけど、図書館の予約もだいぶ待たされそうなので、待たずに借りられる本書をまず読んでみることにした。

私自身、このところ毎年夏、まさに縄文文化が栄え、国宝に指定されている「縄文のビーナス」が発見された場所を訪れているので(もちろんこの土偶も本書で取り上げられている)、土偶にまったく無関心というわけでもない。

専門的な立場からの批判書が出ているということを知ったうえで手に取ったので、先入観を抱いた状態で読んだのは否定できないけど、それはそれとして、面白いですよ、これ。サントリー学芸賞を受賞したのもうなずける(もっとも同賞の「社会・風俗部門」というのは、どういう位置付けなのか分からないけど)。

もっともその面白さは、土偶のレプリカと一緒に寝ているうちにインスピレーションを得てしまったり、「縄文脳インストール作戦」なる(かなり独りよがりな)アプローチを試みたりと、トンデモ本系のあやうい面白さ、と言うべきかもしれない。まぁ、いわゆる「遮光器土偶」を古代に地球を訪れた宇宙服着用の異星人の姿に見立てる解釈よりはだいぶマシであるとはいえ。

考古学や土偶についての知識がなくても、著者の論理展開にはけっこう矛盾や無理を感じるし、「さすがにそれはコジツケでしょ~」と叫びたくなる部分もある。

まぁ、専門的な学者の見解へと読み進めためのステップ(文字どおり、踏み台)としては面白い本なのではないか。近々、『土偶を読むを読む』も読むつもり。

幡野広志『うまくてダメな写真とヘタだけどいい写真』(ポプラ社)

中学時代に写真部だったのだけど、ちゃんと写真を勉強したことはないし、教えてもらった覚えもない。聞きかじり、又聞きなど、この本のなかで「三次情報」と批判されているような知識だけに頼って撮っていたように思う。

で、Twitter(現X)で著者が書いていたアドバイスに感心したことがあり、評判の良いこの本を買ってみた。

詳しい人が読めばもちろんいろいろ突っ込みどころはあるだろうし、何を撮りたいかによってはこの本のアドバイスがまったく見当外れになってしまう場合もある。とはいえ、私のようにちょっと写真に関心のあるシロウト向けの一般論としては、「おおっ」と思えるような教えがいくつも含まれているように思えた。「ヘタだけどいい写真」の作例として挙げられている写真も、なるほど、いい写真だ。

ただ、いくぶん整理不足を感じる部分があり、スマホだろうと安手のコンパクトデジカメだろうと使っている機材にかかわらず即座に実践できるアドバイスと、「そんなの、それなりの金額を払ってちゃんとしたカメラを買わなきゃ無理じゃん」というアドバイスが混在している。たとえば、「何が何でもRAWで撮れ」と書いてあるので、よし、そうしようと思って自分のカメラ(スマホ)を見てもその設定が無い、という状況はけっこう多いのではないか。

とはいえ、良い本。まぁプロはこんな本読まないだろうし、もちろん読む必要もないだろうけど、プロに読んでもらって、ツッコミを聞きたい。

(なお、この表紙のイラストにはあまり感心しない。著者の家族構成を反映しているのだろうから、こうなってしまうのは無理もないのだけど)。

 

三牧聖子『Z世代のアメリカ』(NHK出版新書)

かつて書籍翻訳の仕事でお世話になった編集者の方がFacebookで紹介していたので気になった本。

現在の米国の暗澹たる状況を分析しつつ、次代の担い手である「Z世代」による変化に希望を見出している内容。と、まとめてしまうのは粗雑すぎるかもしれない。2023年7月の刊行なので、10月以降のガザの情勢などは反映されていないのだけど、もちろんパレスチナ問題(というより「イスラエル問題」か)への言及もあり、実際に、今回の事態をめぐって報道される米国内の状況を見ると、なるほどと思わせる部分がある。

確かに希望は描き出されているのだけど、「世代」による変化に期待をかけていては間に合わないのではないか、という懸念もある。もっとも、そんなことを言うと英雄待望論に堕してしまって、それはそれでダメだと思うのだけど。

西村まさゆき『ふしぎな県境』(中公新書)

愛読しているウェブメディア「デイリーポータルZ」で、出入りのライターが執筆している書籍を特集していて、そこで気になった本。

要するに、話題とするに足る面白い都道府県境を訪れてみるという街歩きネタ本の類なのだけど、どうして境界がそのように面白いことになったのか、という背景・歴史にまで探りを入れているので、なかなか知的な内容になっている。

この本をガイドブックに現地を訪れてみようという気になる、というほどではないが、読んで損はない本。

 

宮本勝浩『「経済効果」ってなんだろう?』(中央経済社)

最近だと大阪万博について「経済効果○兆円」みたいな試算が喧伝されているのは皆さんご存知のとおり。そもそも経済効果って何なのよ、と思って、お手軽にWikipediaを覗いてみると、関西大学名誉教授の宮本勝浩という人が、イベントなどの経済効果の試算を数多く手掛けているようだ。すると、この人の著書を読めば、経済効果の何たるかが分かるのではないか。

そう思って検索すると、『「経済効果」ってなんだろう?』という、そのものズバリの初学者向け啓蒙書があるようなので、さっそく読んでみた。

袖の部分に、

「ザックリこれくらい」「だいたいこんなもの」「このくらいはあってほしい金額」、なんて思っていませんでしたか。

実は、詳細なデータにもとづいて、かなり緻密に計算されているのです。

とある。

読み始めると、「はじめに」に、

私たちは、その数字を見れば、みんなが楽しく、元気になり、日本全体、地域そして業界が活性化するような経済効果の計算をするように心がけている。

とある。むむむ。そうすると「経済効果」というタームが出てくると、必然的に景気のいい話ばかりになるのではないか。

本編に入ると、その印象はますます強まる。阪神タイガースの優勝がもたらす経済効果を試算する例のところで、

また、阪神の優勝で、巨人や他の球団のファンの消費が代替的に減少するので、それらのマイナスの経済効果も考慮すべきであるとの批判も考えられたので、巨人ファンの多い関東地域や、中日ファンの多い東海地域のマイナスの経済効果は推計せず、阪神ファンが圧倒的に多い近畿地域の経済効果のみに分析を限定した(本書24ページ)。

とある(ちなみに2012年刊行なので、今回のタイガースの優勝ではない)。

えええええ! 「との批判も考えられた」のであれば、その批判に耐えうるような分析を行わなければダメなのに、まさにその批判を裏付け強化するようなことをやってどうするの(笑)

まぁこのへんですでに「このくらいはあってほしい金額」でしかないのだなぁということは容易に想像できるのだが、それ以外にも、首を傾げたくなる部分は随所にある。

たとえばAKB48の経済効果の節で、

AKB48の直接効果の推定額は約240億~300億円であるので、その平均値270億円をAKB48の直接効果と考えることにする(本書49ページ)。

とある。この著者は「平均」の意味を理解しているのだろうか。

大阪マラソンの経済効果の節では、冒頭に、

計算の結果、約124億円の経済効果があることが立証された(本書114ページ)。

とあるのだが、読み進めていくと、その「計算」とは「…と仮定する」「…と推定された」の積み重ねである。「立証」と称するには、誰もが同意する確かな根拠から論理的に導くべきではないか。

また、何を経済効果として加算していくかという選択もきわめて恣意的である。たとえばダルビッシュのレンジャーズ入団による経済効果の節では、レンジャーズがダルビッシュに支払った契約金まで経済効果に算入されている。しかしこれは、「ダルビッシュ入団」という出来事を実現するためのコストではなかろうか。

かように、要するに「経済効果」とは、まさに袖に書かれた「このくらいはあってほしい金額」そのもので、まともな経済学的・数学的素養すらない人が、恣意的に情報を選択し、希望的観測に徹して積み重ねた無意味な数字であることが分かる。

まぁ、こんな本を読まなくても、おおかたそんなものであろうと察している人は多いだろうが、人柱として最後まで読んでみた次第である。

呉明益『自転車泥棒』(文春文庫)

台湾の小説を読むのは初めてかもしれない。確か家人の叔父がいろいろと言及していたような気がする…。

『自転車泥棒』というタイトルからはもちろんイタリア映画の名作を連想するのだけど、私は未見なので先入観なしで読む(教養なしとも言う…)。

太平洋戦争当時の東南アジアでの戦争を背景に、主人公を含む登場人物の家族史が、自転車を軸に語られる。主人公の視点は現在なので年代物のヴィンテージ自転車なのだけど、スポーツサイクルではなく無骨な実用車。

幻想的な要素も含め、これぞ文学という感じ。図書館で借りたのだけど、これはたぶん買って再読する。